平野(旧姓桜井)清茂岳兄を偲ぶ(S22-25卒)
平成21年7月27日 大塚博美(S23年卒)記
彼と電話で話しをしたのは白馬二重遭難50周年追悼の年だから平成19年3月だった。車椅子の不自由さ、思いは馳せるが山には行けないので皆に宜しくと掠れた声も力なく、慰めの言葉にも詰まり暗く重い想いが心の底に沈んだ。それから2年余り、来たるべき時がきた。平成21年7月8日、永眠。享年82歳。
『厳冬季の畳岩尾根合宿の平野』
昭和22年12月畳岩尾根の新ルートから奥穂高に登頂(12月22日)成功した時のC1でのメンバー6人の写真があるが、撮影した私と児島弘昌を含めて8人のメンバーでの登山だった。
戦後初期の新入部員の中でもとりわけ印象深い者に平野がいた。厳しい冬山合宿の中でも愉快な話題の豊富な一人であった。百万遍の言葉よりここに掲げた一葉の写真こそが総てを語ってなお余りあると信じて改めて紹介したい。
(右から2人目が平野)
風にはためくMの旗、この8人のひとり一人にとって、生涯忘れえぬ体験をしたに違いない。凄い冬山であったことはこの時代背景のなかで合宿を完遂したことにある。旧部員は広羽清君と私、あとは1~2年生、皆冬の穂高は初体験だった。この写真は今でも私に語りかけてくる、若さと強靭な体躯、情熱と不屈の闘志、チームワークの力が時空を越えて甦ってくる。実にいい雰囲気だ、拘りのないリラックスしたこのポーズには“どうだやったるぜ”のオーラが立ち昇るのが見えるのだ。
『喪主茂美さん(長男)の挨拶』
父の病床にあったノートの中から彼の想いの言葉が紹介された。
「山の頂を吹く風のように自由でありたい」と。父は山のことになると何か他のこととは違った反応をしていました、と。
私は彼の出棺を送る中で、一瞬63年前の畳岩尾根にワープしC1にはためくMの旗を想いだし合宿での闊達な彼の面影を偲んだ。あの8人のなかで今彼を送れるのは大嶽隆治君と私の2人であるが、同じ仲間の8人同志の強い絆の連帯はいまも変わらない思いだ。
あの敗戦直後の昭和22年の冬山合宿の時代背景―手から口への食料不足、社会混乱―などは豊饒の現代では考えられない。若さというものはそんな厳しい世相にもめげず乗り越えてきたが、反面、山の貴方の空遠くの幸いの夢に逃避した衝動も隠せない。
“餅を食わせろ!”と言って食料係の大嶽に迫った永井拓治の迫力、飛騨側からの烈風をモロに受けて冷凍庫と化したC2での極限の停滞のこぼれ話だ。
“あっ”という間に私の前からルンゼに滑落して姿を消した児島の事故、C1からの撤収の時。“しまった“と愕然としたがもう遅い。がしかし、山の神の手は優しく彼を尾根下の取り付きで受け止めて紙一重で無事に帰してくれた。天運が若さに微笑んだエピソードだった。
『共に2度雪崩遭難からの生還の体験』
山と人との係わりあいのなかで遭難事故は避けられない。場所を同じくしても紙一重で生死が分かれることはしばしば見聞するところであるが、我々MACの戦後60余年の「ふみあと」の中でも昭和32年春山合宿の佐藤潔和の滑落事故、それの救援に向かった救助隊8名が2度にわたる雪崩に襲われその半数の4名が還らぬ人となった。生死を分けたのはただ運命としか考えられないが、生還者4名の中に平野と私がいたのだ。詳細は「追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告書」、「炉辺7号」に譲るとしてここでは彼を偲ぶよすがとしての体験談として語る素晴らしいリポートを紹介したい(遭難報告書138頁以下)。
「 「しまった」と思う前に顔を向けていた方向,山側に首を曲げながら本能的に2〜3メートルは全力疾走した。この姿勢は雪崩の一端が私をいやというほど雪面に突き倒す瞬間まで変わらなかった。
最初の雪崩と比べものにならない大雪崩であることを直感した。逃げながら見ていたのである。巻きこまれると同時に私は無抵抗であった。無意識に抵抗するものだと聞いたが,そのような記憶はない。またも暗黒その中でギシギシと雪のきしむ音がはっきり聞こえる。「ああとんでもないことになってしまった」と思う。いっぽう頭の中を走馬灯のように数々のことが映っては消えて行った。そして意識だけがものすごくはっきりしている。・・・もうだめだと観念した。まず家族の者の顔が1人1人刻明に,しかもめまぐるしい勢いで思い浮かんだ。たとえば女房はこれから先も私の家にいて一生過ごすのは気の毒だ,きっと母が彼女を実家へ帰すだろう。私に一番なついていた子供は父なし子になってこれからいったいどうして成人するんだろう。病身の母は郷里に帰るだろうが,すでに親兄弟もなくなったり,他家へ行ってしまっているからさぞかしつらい毎日を送るだろう。今年浪人し明春は希望の大学へ進むんだと勉学にいそしんでいる弟は,その望みが粉砕されるばかりか,あすからでも私の代りに働かなければならないし,「ああ弱った弱った」とめちゃめちゃ頭の中は混乱しているくせに,不思議と1人1人が整理されて目に映る。そんなことが友の足音を頭上にきくまで続いた。だがまた救われると知った時,これらは一瞬に消え」去った。
雪崩の死の淵にもみ込まれたほんの僅かの間に、生の一瞬を掴み取るまでの走馬灯のような映像の数々をこんなに明瞭な体験記に接した事は私には初めてであり驚くべきことであった。これは彼が父としての責任、人間としてファミリーを全力で護る、何が一番大事なのかを表していることだろう。
当時独身の私にははるかに及ばない、大事な人間性の暖かい側面であった。
この大遭難の後始末には膨大なエネルギーと費用を要したが、平野君ら地方の会員はそれぞれの立場で協力してくれた。MAC炉辺会の結束の力は一周忌には『追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告書』を刊行し責任の一旦を果たした。更に三回忌には『山から悲劇をなくそう!明治大学遭難実態調査委員会』(教育出版社)の研究発表を出版した。
これには槙有恒氏から心温まる序文が寄せられた。また山と渓谷社山岳賞を受賞した。若い4人の尊い命の冥福を祈りつつ碑前に添えられた。槙さんの揮毫による『追悼』の碑文は50余年を経て今なお現場の双子岩の岸壁に苔むしている。そして毎年の5月、新入部員の合宿の際には慰霊が行われ花が添えられている。MACの年間山行計画の一つとして定着し、誇り高い伝統を支えている。
『後記−越後の炉辺会の名幹事役平野君』
交通新聞社新潟支局(S27-47)に赴任してから7年ぐらい経った頃、“上野と新潟の真ん中は越後湯沢ですよ、東京と越後の懇親炉辺会をやりましょうよ”との呼びかけで早速湯沢温泉で懇親会が始まった。彼の明るい人柄、すっかり土地にも、酒にも馴染んで皆に愛された。それに記者の身軽さで幹事役はぴったりであった。越後の炉辺会員には錚々たる大物が揃っていた。
遠藤久三郎(T12-S3卒)・小出 漸(S3-10)・石本省吾(S7-8)・森谷周野(S11-13)・林孝五郎(旧上田、S14-19)・中西扇次(S14-16)
会長の交野武一(T15-S8)より先輩の遠藤さんがいるし、なんといっても同年卒に『越の寒梅』の石本さんがいる。これだけでも数より中身と見れば、越後衆には頭が上がらない。5、6回やったろうか、その中で一番の思い出は石本さんの本宅で『越の寒梅』原酒での炉辺会、会長恒例の裸踊り、負けじと若手の児島のフラダンス。下戸の私でも原酒が水のように爽やかに飲めたことは忘れられない楽しい思い出の一齣だ。ここに昭和34年4月の清水部落・巻機山登山の炉辺会の記念写真がある。記録の為に平野君を偲んで後記とした。
明治大学山岳部炉辺会発行「炉辺通信」163号(2009.9.25)16頁以下所収
平成21年7月27日 大塚博美(S23年卒)記
彼と電話で話しをしたのは白馬二重遭難50周年追悼の年だから平成19年3月だった。車椅子の不自由さ、思いは馳せるが山には行けないので皆に宜しくと掠れた声も力なく、慰めの言葉にも詰まり暗く重い想いが心の底に沈んだ。それから2年余り、来たるべき時がきた。平成21年7月8日、永眠。享年82歳。
『厳冬季の畳岩尾根合宿の平野』
昭和22年12月畳岩尾根の新ルートから奥穂高に登頂(12月22日)成功した時のC1でのメンバー6人の写真があるが、撮影した私と児島弘昌を含めて8人のメンバーでの登山だった。
戦後初期の新入部員の中でもとりわけ印象深い者に平野がいた。厳しい冬山合宿の中でも愉快な話題の豊富な一人であった。百万遍の言葉よりここに掲げた一葉の写真こそが総てを語ってなお余りあると信じて改めて紹介したい。
(右から2人目が平野)
風にはためくMの旗、この8人のひとり一人にとって、生涯忘れえぬ体験をしたに違いない。凄い冬山であったことはこの時代背景のなかで合宿を完遂したことにある。旧部員は広羽清君と私、あとは1~2年生、皆冬の穂高は初体験だった。この写真は今でも私に語りかけてくる、若さと強靭な体躯、情熱と不屈の闘志、チームワークの力が時空を越えて甦ってくる。実にいい雰囲気だ、拘りのないリラックスしたこのポーズには“どうだやったるぜ”のオーラが立ち昇るのが見えるのだ。
『喪主茂美さん(長男)の挨拶』
父の病床にあったノートの中から彼の想いの言葉が紹介された。
「山の頂を吹く風のように自由でありたい」と。父は山のことになると何か他のこととは違った反応をしていました、と。
私は彼の出棺を送る中で、一瞬63年前の畳岩尾根にワープしC1にはためくMの旗を想いだし合宿での闊達な彼の面影を偲んだ。あの8人のなかで今彼を送れるのは大嶽隆治君と私の2人であるが、同じ仲間の8人同志の強い絆の連帯はいまも変わらない思いだ。
あの敗戦直後の昭和22年の冬山合宿の時代背景―手から口への食料不足、社会混乱―などは豊饒の現代では考えられない。若さというものはそんな厳しい世相にもめげず乗り越えてきたが、反面、山の貴方の空遠くの幸いの夢に逃避した衝動も隠せない。
“餅を食わせろ!”と言って食料係の大嶽に迫った永井拓治の迫力、飛騨側からの烈風をモロに受けて冷凍庫と化したC2での極限の停滞のこぼれ話だ。
“あっ”という間に私の前からルンゼに滑落して姿を消した児島の事故、C1からの撤収の時。“しまった“と愕然としたがもう遅い。がしかし、山の神の手は優しく彼を尾根下の取り付きで受け止めて紙一重で無事に帰してくれた。天運が若さに微笑んだエピソードだった。
『共に2度雪崩遭難からの生還の体験』
山と人との係わりあいのなかで遭難事故は避けられない。場所を同じくしても紙一重で生死が分かれることはしばしば見聞するところであるが、我々MACの戦後60余年の「ふみあと」の中でも昭和32年春山合宿の佐藤潔和の滑落事故、それの救援に向かった救助隊8名が2度にわたる雪崩に襲われその半数の4名が還らぬ人となった。生死を分けたのはただ運命としか考えられないが、生還者4名の中に平野と私がいたのだ。詳細は「追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告書」、「炉辺7号」に譲るとしてここでは彼を偲ぶよすがとしての体験談として語る素晴らしいリポートを紹介したい(遭難報告書138頁以下)。
「 「しまった」と思う前に顔を向けていた方向,山側に首を曲げながら本能的に2〜3メートルは全力疾走した。この姿勢は雪崩の一端が私をいやというほど雪面に突き倒す瞬間まで変わらなかった。
最初の雪崩と比べものにならない大雪崩であることを直感した。逃げながら見ていたのである。巻きこまれると同時に私は無抵抗であった。無意識に抵抗するものだと聞いたが,そのような記憶はない。またも暗黒その中でギシギシと雪のきしむ音がはっきり聞こえる。「ああとんでもないことになってしまった」と思う。いっぽう頭の中を走馬灯のように数々のことが映っては消えて行った。そして意識だけがものすごくはっきりしている。・・・もうだめだと観念した。まず家族の者の顔が1人1人刻明に,しかもめまぐるしい勢いで思い浮かんだ。たとえば女房はこれから先も私の家にいて一生過ごすのは気の毒だ,きっと母が彼女を実家へ帰すだろう。私に一番なついていた子供は父なし子になってこれからいったいどうして成人するんだろう。病身の母は郷里に帰るだろうが,すでに親兄弟もなくなったり,他家へ行ってしまっているからさぞかしつらい毎日を送るだろう。今年浪人し明春は希望の大学へ進むんだと勉学にいそしんでいる弟は,その望みが粉砕されるばかりか,あすからでも私の代りに働かなければならないし,「ああ弱った弱った」とめちゃめちゃ頭の中は混乱しているくせに,不思議と1人1人が整理されて目に映る。そんなことが友の足音を頭上にきくまで続いた。だがまた救われると知った時,これらは一瞬に消え」去った。
雪崩の死の淵にもみ込まれたほんの僅かの間に、生の一瞬を掴み取るまでの走馬灯のような映像の数々をこんなに明瞭な体験記に接した事は私には初めてであり驚くべきことであった。これは彼が父としての責任、人間としてファミリーを全力で護る、何が一番大事なのかを表していることだろう。
当時独身の私にははるかに及ばない、大事な人間性の暖かい側面であった。
この大遭難の後始末には膨大なエネルギーと費用を要したが、平野君ら地方の会員はそれぞれの立場で協力してくれた。MAC炉辺会の結束の力は一周忌には『追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告書』を刊行し責任の一旦を果たした。更に三回忌には『山から悲劇をなくそう!明治大学遭難実態調査委員会』(教育出版社)の研究発表を出版した。
これには槙有恒氏から心温まる序文が寄せられた。また山と渓谷社山岳賞を受賞した。若い4人の尊い命の冥福を祈りつつ碑前に添えられた。槙さんの揮毫による『追悼』の碑文は50余年を経て今なお現場の双子岩の岸壁に苔むしている。そして毎年の5月、新入部員の合宿の際には慰霊が行われ花が添えられている。MACの年間山行計画の一つとして定着し、誇り高い伝統を支えている。
『後記−越後の炉辺会の名幹事役平野君』
交通新聞社新潟支局(S27-47)に赴任してから7年ぐらい経った頃、“上野と新潟の真ん中は越後湯沢ですよ、東京と越後の懇親炉辺会をやりましょうよ”との呼びかけで早速湯沢温泉で懇親会が始まった。彼の明るい人柄、すっかり土地にも、酒にも馴染んで皆に愛された。それに記者の身軽さで幹事役はぴったりであった。越後の炉辺会員には錚々たる大物が揃っていた。
遠藤久三郎(T12-S3卒)・小出 漸(S3-10)・石本省吾(S7-8)・森谷周野(S11-13)・林孝五郎(旧上田、S14-19)・中西扇次(S14-16)
会長の交野武一(T15-S8)より先輩の遠藤さんがいるし、なんといっても同年卒に『越の寒梅』の石本さんがいる。これだけでも数より中身と見れば、越後衆には頭が上がらない。5、6回やったろうか、その中で一番の思い出は石本さんの本宅で『越の寒梅』原酒での炉辺会、会長恒例の裸踊り、負けじと若手の児島のフラダンス。下戸の私でも原酒が水のように爽やかに飲めたことは忘れられない楽しい思い出の一齣だ。ここに昭和34年4月の清水部落・巻機山登山の炉辺会の記念写真がある。記録の為に平野君を偲んで後記とした。
明治大学山岳部炉辺会発行「炉辺通信」163号(2009.9.25)16頁以下所収