シェンクのピッケル 故郷に還る

  明治大学山岳部炉辺会 大塚博美(S23年卒)


シェンク1シェンク2











〜〜二本のシェンク〜〜

 故村井栄一明治大学山岳部炉辺会会員(S9卒、S46没)の所有していたシェンクのピッケルが、70年余の歳月を経て平成20年3月、大阪から信州上田に還った。
 ところで、明大山岳部(MAC)の創設者のひとりである米澤秀太郎会員(T12卒、T13没)が山岳部へ寄贈した物品の中にシェンクのピッケルがある。そのピッケルには「Meiyu Alpine Club」の金の象嵌がされておりフィンガーには米澤秀太郎の名前が彫り刻まれていた。シェンクのピッケルは、後掲の失敗談もあって私にとって深い係わりのある名品なので、このたびの村井さんのシェンクのピッケルについての経緯をメモに書き留めておきたい。
 
〜〜村井さんのシェンク〜〜

「預かり人」北口礼吉氏(93歳):(株)北口山スキー研究所社長、大阪市北区西天満在住。
 北口山スキー研究所は昨年、創業60周年を迎えたが、北口社長は高齢と体調を考え、今年3月をもって専門店を閉店した。関西では岳人に惜しまれつつの老舗山岳運動具店の閉店となる。
 北口社長の唯一の気がかりは、戦前から預かったままになっている村井氏のピッケルのことだった。このピッケルをなんとか村井氏の家族のもとに返したいと宛先を探したがはっきりしない。そうした経緯を経て松浦輝夫氏(早大山岳部OB稲門山岳会)から入院中の北口社長の意向が私に届いた(平成20年1月末)。
 その時の話では、「閉店までに分からなかったら明大山岳部の方で預かって下さい。宅急便で送ります。」等ということで暫く様子を見ることにした。

〜〜村井家との連絡〜〜

 2月末、炉辺会新名簿が届き、早速故村井栄一氏の上田の家に電話を入れた。話が伝わるか半信半疑であったが、電話口では、「はい村井です」「明治大学山岳部OBの村井栄一さんのお宅ですか」「はい村井の息子です。」
「私は村井さんの後輩で昭和23年卒の大塚博美と申します。唐突にお電話申し上げますが、お父さんの遺品のピッケルを預かっているひとが見つかりました・・・」と、今までの経緯を話した。
「びっくりしました。本当ですか、嬉しい事です。私はスキーばかりで山はやりませんのでピッケルの事はよく分かりませんが、お任せいたしますのでよろしくお願いいたします。」と、息子さん。
 こうして、後日ピッケルの取扱いについてあらためて連絡することにした。
 
〜〜北口社長の代理人、木村氏と連絡〜〜

 息子さんとの電話の後、すぐに木村さんに連絡をとり、息子さんの住所が分かりピッケルの話しをしたことや息子さんが驚き、大変喜んでいたことなどを伝えた。
 木村氏「よかったですね、北口社長の意向を伺いご連絡いたします。」とのこと。
 翌日、木村さんから「北口社長は是非(木村が)上京して手渡しするように、との厳命です。」との連絡があった。
 ところで、木村さんは立命館大学卒、京都伏見稲荷山での家業の傍ら、山スキー研究所をサポートし、特に研究所創業60周年記念展示会では「植村直巳の足跡」の開催において北口社長の山の専門店としての理念を植村スピリッツに寄せてメッセージの発信を取りまとめ成果を上げている。なお、松浦輝夫氏とは植村直巳の思い出話や山の厳しさなどの話で協力した経緯があった。

〜〜ピッケルの受渡し〜〜

 平成20年3月25日。正午、日本体育協会ホール(代々木)。村井さん・木村さん・仲介人大塚の3者が揃う。
 木村さんから、梱包を解いてピッケルを村井さんへ。70年余の歳月を経て村井OBの魂のピッケルが息子さんの元に還った。「E.MURAI」の金の象嵌が見事に打ち込まれ、シャフトのヒッコリーには腐敗防止の塗装がされていた。まことによい手入れがなされている。預かった北口社長の山の道具を大切にする心が伝わってくるようだ私も手に取らせて貰い、立ち上がってシャフトの長さを計った。村井OBの背丈に合った長さだ。昔の長さのシャフトである。しばし感に打たれる。
 積もる話は山ほどあり、原宿でのランチを挟んで午後2時頃までたいへん爽やかないい時を過ごした。

(注記)

「村井栄一氏関連」:

 明大山岳部には昭和5年から9年まで4年間在籍している。S11立教大学のナンダコート登頂が大学山岳部の黄金時代の象徴であるように、部活は盛んであった。(明大山岳部・炉辺会編「明治大学山岳部80年誌」(2002)参照)。
 半面、時代背景は満州事変(S5)から支那事変(S12)へと戦雲の影が濃くなっていた。そんな中で台湾遠征登山(S14・15)を実施している。
 村井氏は卒業後、関西へ赴任。兵役を含めて大阪に在住。この間、山スキーを盛んに楽しみ美津濃運動具店の北口礼吉さんと交遊していたことからシェンクピッケルを北口さん経由で入手した様子(S14〜5年頃ではないかとは、木村氏談。なお、村井氏のこのピッケルには、シェンクのマークのほかに美津濃など他ブランド銘の刻印は無し。)シェンクのピッケルが北口社長のもとで保管された経緯の詳細は不明。S33村井氏は上田市に帰る。
 息子さんの話。「小学校3年生まで大阪にいて父にスキーを教えてもらった。そして今は日本体育協会公認の指導員として父のイニシャルを採りジャパン・イー・エム・スキークラブを創設(S43)、東京都スキー連盟に登録して活動している。嫁に行った娘も長野県スキー連盟の指導員として軽井沢のプリンス・ホテルの人工スキー場で仕事をしている。」と、父の指導の大きさを語っていた。そしてご母堂もご健在とのこと。
 村井栄一氏が登山隊長を務めたものとしては、1967年(S42)5〜7月、長野県山岳協会ペルー・アンデス登山隊10名の隊長として(上田山岳会 54歳 大修館勤務)、サンタクルス・ノルテ(5829m)登頂。成果を挙げる(日本山岳会編「山岳」第63年(1969)参照)。
 
「シェンクのピッケル」:

 スイスピッケル鍛冶のひとつ。槇有恒「わたしの山旅」(1968年 岩波新書)でも触れられているが、槇さんが日本へ持ち帰った槇さん用のオーダーメイドのシェンクのピッケルが、山内(仙台)や門田(札幌)のピッケル製作の原型になった。
 なお、わたしはマナスル登山(1956年)では、普段山行で使っている重めの門田ピッケルではなく、門田にマナスル用にオーダーして軽め(シャープさ重視、ステップが切りやすいようにした)のものを製作してもらって使用した。

「長野県山岳連盟と炉辺会」:

 1964年、長野県山岳連盟主催ギャチュンカン遠征隊(L古原)初登頂、1名滑落遭難死。
 1965年、明治大学ゴジュンバカン遠征隊(L高橋)初登頂。植村直巳とシェルパ。
 ギヤチュンカンは明治大学も狙っていたが、長野に先を越された。そのルートは雪男探検隊(1964、65年冬)の時、ゴジュンバ氷河探査の折に有望なルートを発見して明治はそこを準備したが、登山許可は長野県が取得した(「山岳」第60年(1965)参照)。
 
「上田市と私」:

 兵役で上田飛行場に駐留していたことがある。S19年末から20年2月まで、陸軍第3期特別操縦見習士官として海外派遣の待機の為である。千曲川の左岸の河川敷を整備した赤トンボ(二翼練習機)用の場であった。そこでは飛行訓練のない操縦見習士官はただの穀潰しに過ぎなかったが、美しい信州の自然と温かい民情、偶々寝台戦友になった大橋寿一(MAC同期)と過ごした楽しい外出の事などは、歳月を経ても何かの折にふっと思い出すことがある。
 息子さんとの話しのなかで、「そう言えば、母は娘の頃赤トンボが飛んでいるのを見たことがある、と言っていた」とのことで、その一言でもピッケルの取り持つ縁で炉辺会員村井栄一先輩のファミリーとの絆が生まれた。

「米澤シェンクとともに雪崩に巻き込まれる」:

 私の山の失敗談。1949年(S24)MAC、6月の奥又白合宿(L永井、金澤、星野ら7名)、冬の明神東稜の偵察と残雪期の登攀訓練。いつもは門田(札幌)ピッケルを使用しているが、この山行では、米澤シェンクを借り出している。OB2年の私は一人遅れて東稜を辿り、前穂の下で下山中の永井らと合流して下山を始めた。その下りのグリセード中に失敗し、A沢の50m大滝をジャンプして奥又白谷に叩き落とされた(地形から見て高差300m、長さ800m程)。腰を強打し一瞬気を失うが、ハッと気がついて体を確かめたが大丈夫、ただ右手首が痛むのでよく見るとピッケルバンドが切れて米澤OBのシェンクのピッケルが見えない。腰が痛くて立てなかった。暫くしてヨーデルが聞こえ永井らが駆けつけてくれた。山を甘く見た、軽率なグリセードだった。
 
「シェンクのピッケル探し」:

 上高地帝国ホテルの木村管理人小屋で打撲の治療に10日ほど滞在。デラ台風の襲来でバス路線は崩壊、梓川も大荒れで下界とは途絶えた状態で、私にはかえってうってつけだった。6月25日、体調はまあまあだ。新緑が目に沁みる。徳澤園の上条進さんに挨拶。単独で奥又白にピッケル探しに行くことを話す。
 「・・・でかい雨が降った後で雪もかなり減っとると思うで、たぶんピッケルは雪の上に出とると思うでなあ、・・独りだで無理せんと気つけてな」と。山の主の温かい一言に大いに勇気付けられた。
 黒々とした大滝の岸壁基部のベルグシュルンドの固い氷壁のような雪渓に、ピッケルが突き刺さっているのを発見。無事回収し撤収したものの、ピッケル探しは困難をきわめ都合10時間かかった。
 進さん、木村さん共に喜んでくれた。何はともあれ部の伝統の米澤OBシェンクのピッケルを無事回収でき面目を保った自分に対して「よかった、よかった、よくやったよ」と、納得し自らを慰めた。60年前の青春の回想の一駒。
 (「楡の木は知っている」−徳澤園の歩み−創立50周年記念出版(S58.6月発行)の内、私の著『山での失敗−前穂東壁A沢の大滝をジャンプ−』から抜粋加筆)
 
「あとがき」:

 ピッケルの管理について家族の意向が決まり次第、決めたいと思う。東京板橋区の植村直巳冒険館、明治大学山岳部、大町の長野県山岳博物館等が考えられる。


平成20年4月6日記

(明治大学山岳部炉辺会「炉辺通信」158号用原稿を一部修正のうえ掲載しています)