山あれこれ

2010年02月11日

追悼 「世界一の天幕作り」の吉田喜義さんを偲んで(大塚博美)

平成21年12月25日 大塚博美(昭23年卒)記

「現在の名工」として卓越技能賞受賞者の吉田喜義さん(吉田テント(株)元社長)が、平成21年11月12日老衰のため死去された。享年99歳。白寿の天寿を全うした職人魂一筋を貫いた人生であった。
葬儀は14日、杉並の今川宝珠殿で行われた。祭壇には(社)日本山岳会を始めとして、慶応・早稲田・明治などの各大学の体育会山岳部の花束が花壇に添えられていた。故人の幅広い深い絆が窺えた。
私は葬儀に参列して吉田さんの遺影を眺め、半世紀前のマナスル登山隊の追憶にしばし浸った。

当時、私は登山隊員(29歳)として装備を担当し、吉田さん(44歳)とは真剣勝負の仕事を通じて、吉田さんの職人魂に触れ深い交誼を得た。
戦後の吉田テントの発展のきっかけは、マナスル登山隊(1952~56年)の装具類の信頼によるものであろうことは疑いのないことであろう。
吉田さんのテントが日本の主な海外登山隊に伴ってネパール、カラコルム・ヒマラヤ、アラスカ、アンデスなど、世界各地で活用された。
MAC・炉辺会とも深い関係だった。60年代のマッキンリー、ゴジュンバカン、ニュジーランド、70年代でチューレンヒマール、そして植村直巳の単独犬橇北極圏1万2千キロ、北極点〜グリーンランド縦走などの特製の三重のテント。80年代には植村隊のアコンカグア、冬のエベレスト、そして81年明大百周年のエベレスト西稜などである。
登山の潮流が重厚な極地法から軽装のアルパインスタイルへと時代の変遷に従って吉田テントは85年代から文部省南極観測隊の装具が主となり、登山界との関係は薄れて行った。
またMACが「特大のキスリング」を吉田テントに特注し登山合宿で使用し、明治の「キスリング」として定評があったが、これも布地の帆布の生産の打ち切りで1990年で終わる。

ここに卓越技能賞の受賞にあたって贈られた記念の銅版から、故谷口現吉さん((慶応義塾大学山岳部OB登高会員、マナスル第2次隊員))が祝いの辞を贈ったがその跋文を紹介しよう。
「 記念として  吉田喜義さん、あなたの作った天幕は、その張られた場所の高さでも、地域の拡がりでも、また強風や低温に耐えた点でも、まさに先人未踏の域に達しました。だからあなたこそ世界一の天幕作りだと私は思っています。
しかし、ほんとうにあなたを称えたいのは、その些かも忽せにしない天幕作りの魂です。
多くの仲間達が、あなたが作ってくれたが故に、その天幕にどんな時でも、どんな所ででも、安心して生命すら託することが出来ました。
今日たまたま、五十年の鏤骨の努力が認められて、所管の大臣から表彰されたと聞きました。ほんとうにおめでとうございます。・・・」

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{写真}は第3次マナスル登山隊C5、7200mのカマボコ型テント。北峰を眼下に鯨の背の台地に設営された4基の力強く美しい威容、日本が世界に誇るその居住性、正に芸術作品である。ここに6泊した私の、当時31歳の眩しい青春のノスタルジーである。
1956年5月7日マナスル登頂のクライマックスのスノーエプロンの開拓の幕がこのC5から始まり、好天に恵まれて9日、今西・ガルツェンは初登頂に成功、続いて11日、加藤・日下田も第2次登頂に成功した。ヒマラヤ8000mの登山史の1ページに栄光の金字塔を残した。
築き上げた金字塔の数え切れない多くの礎石の一つにこの天幕があることは間違いのないことだと確信している。

【写真は「マナスル写真集」撮影依田孝喜、毎日新聞社。昭和31年11月発刊より】


明治大学体育会山岳部/OB会 炉辺通信164号所収(平成22年1月31日)

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2009年12月29日

「野帳」終刊によせて:大塚博美(2009年10月1日記)

「野帳」終刊によせて
2009年10月1日       大塚博美
 

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(2009/8/5軽井沢にて堀田弥一さんと共に)

2009年『野帳』6月号で終刊の「お知らせ」を拝見し少なからず想いが心に浮かびました。それは言葉や形では表せませんが、貴方(発行人 早川禎治氏)の筆勢から受ける快い爽やかさがもう終わりか、という一抹の寂しさのようなものでしょうか。
山はしっかり足腰も強く、そしてその思想信条については少しもぶれず群れることなく孤高な文武両道の畏敬の士と思っています。
すでに古希に至り、とありますが、いまだ古希でありますと発想の転換をされているのではないでしょうか。余生は著作業に専念されるために、より大きな自由を必要とすることに気づきました、とありましたが、どうかご自愛のほどを。
さて、誌面を頂戴致しましてここでは堀田弥一さんのことについて触れたいと思います。

【私の一期一会 山と人−掘田弥一さん−】

今年2009年1月30日、掘田弥一さんは百歳を迎えました。それを祝って3月、母校立教大学において山岳部OB山友会と(社)日本山岳会の共催で「百壽を祝う会」が催されました。ステッキ片手にいささかも言葉のぶれもなく矍鑠たるスピーチの挨拶に拍手は止みませんでした。
戦前、日本唯一のヒマラヤ初登頂、1936年ナンダ・コート(6867m)。立教大学ヒマラヤ登山隊隊長掘田弥一(27)、山縣一雄(25)、湯浅巌(学生)、浜野正男(学生)、竹節作太(毎日)ら5名による快挙。現存は隊長のみ。
掘田さんは私の知る限りにおいて稀有の名リーダーそのものと信じております。
堀田さんが昭和2年立教大学スキー山岳部に入部した頃は、部活動はスキーと夏山を楽しむ程度のものでしたが、掘田さんが活動してから体育会に加盟が認められました。昭和4年に上級部員となって明確な部の活動方針を定められました。誰も人の登っていない山や渓谷を登り歩く、言うなればパイオニアワークを基本として独創的な登山活動の方針です。自ら厳しい訓練と規律を課してハングリー精神を養う事をテーマとして、常に新しい目標掲げ積雪期の黒部、剣、後立山に向かいました。
昭和7年に卒業するまでの4年間、ひたむきに山を愛した仲間は、その夢をいつしかヒマラヤへと昇華させました。その詳細な報告書は立教大学山岳部部報第1号(1929年(昭和4))から8号(1937年(昭和12))に総て網羅されています。
特にヒマラヤ登山の土台となった昭和3年から10年までの山岳部の積雪期の足跡に参加した20名の部員を掲げています。
私は、たまたま入手した2冊に合本されたこの部報を読み、ただただ内容の充実に目を見張り圧倒されました。そして山のリーダーの本当のあり方と資質―綿密な調査、研究と準備―実行力を支える体力、総ての根本となる感性と山の哲学。掘田弥一さんの学生時代の若武者の姿が匂い立つように髣髴とさせるものでした。

・ナンダ・コートの時代背景

戦前の昭和11年といえば2・26事件、翌12年は支那事変など社会背景の中でインドのガルワル・ヒマラヤとはいえ、日本登山界初の快挙であったが、この山域と山を選んだのは掘田隊長でした。
この頃は学生登山界は黄金時代を誇り慶応、早稲田、京都、学習院、東大、一橋、北大などは国内の主な山々の積雪期のバリエーションに盛んな登攀を展開していました。当然勢いは海外へヒマラヤと向かっていきました。例えばカンチェンジュンガ(1929年)はパウル・バウアー隊長の報告書が翻訳されてヒマラヤ登山の教典として活用されていました。当然掘田さん達も原書の翻訳を辻部長にお願いし3ヶ月掛けて研究し大いに活用したわけです。しかし他の伝統校はどこも極地法登山の訓練だけの資料に留まってしまいました。
京都大学だけが交渉員をインドに派遣しましたが、立教大学隊の後で成果なしでした。つまりどこも本気でヒマラヤをやろうというリーダーがいなかったということになります。昭和11年を逃せば海外どころの話ではなく、部活さえ自粛の気配が忍び寄って来ていました。

・ナンダ・コートへの道

なぜガルワルを選んだのか。理由は簡単で許可が一番取り易かったからです。
現実的に必要条件を列挙して、消去法で考えていって残ったのがインドのガルワル・ヒマラヤだったのです。問題は入国と登山許可の手続でした。当時は大英帝国がインドを支配しており総ては大使館の所管でした。当時の日本外務省は、ヒマラヤ登山については何の知識もなく経験もありませんでしたので説得が大変でした。毎日新聞社や辻部長も揃って応援してくれまして、やっとパスポートを発給してもらいました。それには『視察のため英領インドへ・・・』とありました。当時インド官庁は国内の行政だけでした。
立教隊以前にもインド周辺、シッキムなどに潜入した人がいましたが、みんな無許可で忍び込んだという状況ですから、現地人に変装などして大変に苦労しています。河口海慧さんもそうです。
海外登山の大前提は、目的の山の正式な登山許可を入手することです。さらにそれぞれの国の登山規則があり登山料から始め細部に亘り決められています。隊長はサインをして登山料支払う。これが海外登山のスタートラインです。ですから、東京の英国領事館から登山許可書が届いた時、ナンダコートの夢は実現となった訳です。

・小さな登山隊

当時の立教大学山岳部は優れた山仲間のグループでしたが、家庭の事情やその他のことで無念の涙を呑み結局4名(学生2、氏名は冒頭に)、後援者の毎日新聞社から報道隊員として竹節作太(第2回冬季5輪・スイス、50キロ参加)の5名の少数登山隊となりました。
経費の総額は1万2千円、(毎日、隊員、募金で等分担)。資金、隊員の決定遅れなどから、予定の船便を遅らせ7月12日になってしまいました。貧乏隊を支えたのは山岳部部長を中心に現役ら関係者と大口募金に応募、暖かい支援を頂いた方々、特に外務省がその中に含まれていることは言葉にならない驚きと、若者の大きな夢への励ましが感謝の念と責任の一端を感じざるを得ませんでした。
神戸の埠頭で見送った後援者の気持ちの中には「これが最後にならねばよいが」、「学生の登山隊では無理でないかな・・・」登山を危ぶむ声もあったそうです。

・ナンダ・コート登山の一端

1ヶ月の船旅を終え、カルカッタからインド大陸を紀行し、アルモラでシェルパ3人、ポーター70人のキャラバンを編成。14日の行程の末BCを設営したのは9月2日でした。登頂までは約1ヶ月の行動の概略はつぎの通りです。
ルート偵察を終えてC1をABCとして、C3を5760m、C46300mを9月26日に設営しましたが、石油コンロの不調のため水が唇が湿すぐらいしか摂れない。停滞後の9月26日アタックを掛けるが呼吸困難となり天候も悪化。ガスに蔽われる中で、あと150~200mを残して下山の決断をする。
10月3日、第2次アタックのためにBCを出発。高度馴化が出来たためか、前回に比べ力強く歩く。4日C4に全員(隊員5、シェルパ1)快調で入る。
5日晴れ。7時30分頂上にへ向かって出発。前回の半分の時間で登って行く。最後は掘田隊長がトップで雪庇を切り崩して、頂上に這い上がる。続いて湯浅、アンツリン、竹節、山形、浜野。全員がナンダ・コート6867mの頂に立つことができ、歓びに手を握り合った。
掘田隊長は、その感動をその著書『ヒマラヤ初登頂』筑摩書房(4章90頁)で次のように述べています。
「瞬間、視界は開け、自分より高いところは見当たらない。頂上にきた。戦い抜いた感激。そして使い切った心身の疲労を自らねぎらった。吹き狂う氷雪の山頂で。
思えば、いつしか育まれた初登頂の夢が、現実への茨の途を進み、一つの理想としておしえられたヒマラヤの山頂へと、われわれの身を、ひとつの運命のように駆り立てた。その運命が、ついにわれわれを氷雪で蔽われた地球上の一角にまで追い込んでしまったのである。そこには誇るべき発見もなければ記念として持ち返り得る一片の石さえなかった。しかしわれわれの心は満たされた。信ずるところにベストをつくして闘ったからである。」
熱い思いが胸に迫ります。

【軽井沢避暑地での談話―2009年8月―】

恒例の軽井沢避暑中の掘田さんを訪問しました。8月の始め2泊3日となりました。3月の「百壽を祝う会」以来でしたが、相変わらず矍鑠たるご様子、ご機嫌伺いしながら閑話休題、山の放談を拝聴しました。
静かな古い別荘地の一隅に建てられたB&Bハウス、山仲間が建てた気楽な宿です。林を渡る涼しい風と木漏れの陽の午後、庭先のテーブルに着きました。
掘田さんの開口一番は、“君のエプロンルートはどうやったの?”でした。今までになく唐突な問いかけであったので少しびっくりしました。以下、1952年から始まったマナスル登山について堀田さんの談話も交え時系列を追って述べてみたいと思います。

・2次隊長決定の経緯

堀田「私への、マナスル2次隊長の就任依頼が三田さん(1次隊長)から持ち込まれたのは1953年の12月30日だった。当時健康を害していたし踏査隊にも参加せず、山に向かう気持ちは消極的だったので再三固辞したが、槙さん始めヒマラヤ委員会のメンバーや毎日新聞社の担当者が徹夜で説得された。来年1月14日が新聞の期限だということで、隊員の編成替えを条件に承諾したが、1名の変更で終わった。
たとえ登山隊が失敗に終わっても、ヒマラヤ登山成功の経験者が隊長である、ということで世間対して口実が立つということではないかと思った。私が病気のことは皆知っていたし、それにも増して人の準備した登山隊の隊長になれとは失礼なことだし、ヒマラヤ委員会の見識も疑われる事だ。それを承知の上で面目もかなぐり捨てての懇請だったのであろう。
1次隊は全員ヒマラヤ初体験者であったが、プラトーの7750mまで到達できたことで、もうあと一息と思った事であろう。そしてヒマラヤ委員会の特命を受けた1次隊員らが、1953年の英国エベレストの報告書などを新たに参考にして、隊員の編成と物量の収集、登山計画に全力を尽した。そんないままでの準備の経過が背景にあったのであろう、と推測された。
隊長になってから私はいろいろ準備のことを聞いたが、所詮私の流儀とは基本で異なっていた。一言で言えば最終キャンプが「8」だと言う事。余りにも多すぎて長く、荷揚げが多く、登山のリズムと楽しさが阻害されるという事だ。
1950年のアンナプルナ(仏)、人類初の8000mの偉業の登山内容より、1953年エベレスト初登頂(英)の登山運行が参考されたようだ。これはわが国の近代登山の導入が、槙さんらの先達によって行われた訳だ。英国留学、そしてヨーロッパアルプスでの登山など先達の経歴からみれば、何事によらずヨーロッパ重視は良くも悪くも歴史の歩みであろう。
そして日本の積雪期登山と縦走の体験技術は、アルプスの氷河技術に勝るとも、決して劣るものではないと体験上断言できる。


・サマ事件―村民の入山拒否―

堀田「私が隊長となった第2次マナスル登山隊のキャラバン隊が半ばに達した頃からサマ村民の不穏な情報が伝わって来たが、これの事実が掴めぬうちサマ村に接近し折衝したが、頑として村民の入山拒否の態度は変わらず、残念ながらガネッシュ・ヒマールに転進せざるを得なかった。

・サマ事件の遠因は、それは想定外の事であったか?

堀田さんの話や各種資料にも接して私が思ったのは次の様なことです。
サマ村民の反感は、旱魃による不作、大雪崩による僧院の破壊とラマ尼3名の死亡、疫病などの天災を、これは聖山カンブンゲン(マナスルの源名)を汚した日本登山隊の所業に対する神罰である、とエスカレートして妨害、入山拒否となりました。政府の登山許可は単なる紙切れ同様無力となり、拒否は事件となりました。400人を越える大部隊の登山隊では、即効力のある解決策でない限り無力でした。
ガネシュ偵察の断念を、BCで病に伏している隊長に報告に赴きましたが、それを期に長引く病状の悪化の懸念から登山を中止しキャラバンに変更し、堀田さん自身はドクター付き添いで途中帰国しました。
隊長の無念の胸中や推し量るべくもありません。ヒマラヤ登山はハプニング―雪崩、滑落、悪天候など―の連続と教えられてきましたが、これはいったいどうしたことだろうか、全く想定外の事態だった訳です。
当時、初参加の私は隊員として、驚天動地、ヒマラヤ山麓を放浪する大部隊の悲劇を体験しました。
第2次隊報告書に「わが1954年マナスル登山隊はあまりにも空しき敗退のエキシぺディシオンであった。・・・(谷口記)」とあります。
事件の原因は帰国後検討されましたが、隊のシェルパとチベッタンの喧嘩が根底にありました。
それは1952年今西踏査隊日誌に、シェルパとカカニの村人との大喧嘩。また1953年1次三田隊報告書には帰りのBCから数時間のラルキヤ・マーケットの茶屋でピッケルを振るっての流血の惨事がありました。隊員が止めましたが、サマ僧院の裁判権を持つ大ラマ僧が駆けつけ、交渉の結果40ルピーの支払いと、傷の手当てを条件にやっと解決。この為マーケットの上の台地にキャンプせざるを得ず半日遅れた(村山記に詳細)、と2隊の報告書には報告されています。
またシェルパは同じチベット族でありながら、村民を低く見て差別的な態度が散見されていました。隊はそれらキャラバンのトラブルは総てシェルパのサーダーに任せて、ノータッチでした。しかしサマの村民にとっては、シェルパも隊も同列だったのです。
これはヒマラヤ奥地のチベット住民に対する異文化・風習などに関する未経験からくる無知による文化対策の欠落の問題でした。また隊側のシェルパに対しても優れたサーダー(シェルパ頭)を厳選する事が第一です。莫大な経費と貴重な8000m登山の体験を逃した損失は計り知れません。1950年代のヒマラヤ登山界黄金時代においては初めての事であり、ネパール政府の面子も丸潰れでした。我が国はいまだ国交を開始しておらず、総ては日本山岳会が当事者でした。

・第3次登山隊の派遣

ヒマラヤ委員会は、マナスル登山事業の続行は決定し、1956年第3次登山隊の派遣の準備に入りました。特にサマ事件対策のため1955年には調査隊に西堀・成瀬の役員、秋に第3次先遣登山隊3名(隊長小原、村山、橋本)を派遣することを決定し、ネパール政府の許可を得て活動に入りました。
堀田「第3次マナスル隊員の、先遣隊長の小原勝郎は私の後輩でナンダコートの候補者だった。またリーダー役の今西寿男君は京大山岳部で現役の頃、鹿島槍の北壁の初登攀を小原と競った仲だった。そして今西君が初登攀者となった。20年後の今西君は、1953年の秋に京都大学山岳部アンナプルナ4峰の登山隊長として7200mまで迫り、秋の烈風にテントを破られて撤退したが、その果敢な登攀は、マナスル第1次隊の登攀と比較されて話題となった。
小原は隊長の補佐役として、また今西君は登攀のリーダー役として本隊の中核となって活躍した。山の絆の縁を感じるものだ。


・マナスル登頂のクライマックス

1956年第3次マナスル登山隊でのこと。そこで掘田さんの開口一番の、「君のエプロンルートはどうやったの?」の件です。
今までになく唐突な問いかけであったので少しびっくりして、鸚鵡返しに「いやぁー計画では加藤・村木パーティーの偵察が失敗したので、私は登頂隊のサポートの任務でC5に入ったのですが、私に『明日行け』と指示が出たわけです」と返事をしました。
部外者には何のことやら分からないと思いますので、当時の2日間を再現してみたいと思います。
―1956年5月6日、第3次マナスル登山隊は切所に面していた。基本計画ではノースコル経由でプラトーに出る一次隊のルートを前提としていたが、今西偵察隊の下見の結果、状況が極めて悪く、放棄した。槙隊長は計画を修正し、C5(7200m)の確保と、未知のスノーエプロンルートに登頂の夢を託した。
加藤偵察隊のルート・ファインディングを見ていたが、スノーエプロンの右側の雪と岩の複合したこのルートは駄目だ、スピードが上がらない、と思っていたが、二人は午後2時中止し下山した。
私の出番となった。5月7日、C5(7200m)無風快晴、8:00時酸素3lにセットし、私はペンバ・ズンダとアンザイレンし、スノーエプロンの平均斜度45度の氷雪に登攀を開始した。快調なペースでぐんぐん登り7800mのプラトーの肩に12:00時頃着いた。途中酸素の交換で止まったが高揚し疲れは感じない。C6(7800m)のキャンプ・サイトを選定した。仕事は終わったが酸素の余裕充分なのでマナスルの頂上ルートを偵察した。緩やかな斜面がうねって頂上の岩場に収斂されている、最後は岩登りがあるな、と思った。7900m、後1時30分。これで充分だ、下るぞとペンバに合図すると彼は、頂上を指さして、“トップ、トップ”と登頂しようという気持ちを表した。私はそれにはかまわず、頂上を背にし無事C5に4時ごろ下山した。―

登山隊の報告書には槙隊長の手記として「彼らは快適な歩度を持って、スノーエプロンを登りきり、プラトーの台地へ姿を消した。C2から私たちは、遂にプラトーへの登路は開かれたと大きな希望を持って、彼らの行動を見ていたのであった。この日、ふたりは7900mに達したのみならず、プラトー上の頂上への登路も十分偵察し、またC6の設営地点をも選定してC5へ下ってきた。この大塚の偵察の成功は登頂への確信を高揚させたのであった。」と。
スノーエプロンのルート開拓はこんな様子でした。
これにより好天を逃さず今西・ガルツェンの登頂隊は村木隊のサポートを得て、C6を経て5月9日午前11:00時無事、マナスル(8156m)の初登頂に成功しました。続いて11日、2次登頂隊の加藤・日下田隊も大塚隊のサポートで登頂に成功、無事下山。2隊の完全登頂により大成果を収めた日本登山隊は、ヒマラヤ8,000m14座の一角に足跡を印し、世界の登山史にその名を金字塔に残し栄誉に輝いたわけです。
こぼれ話ですが、BCを設営したところへサマ村民、特にヘッド・ラマ僧らは納得せずBCに押しかけてきました。
郡長(ネパール政府の行政官)立会いの下で数日掛けた交渉で、槙隊長はサマの僧院の再建費用としてお賽銭を収める事で合意を得ました。紙幣を数えるのに延々数時間を掛かりましたが、金で事で済めば上々の事です。BCでのその場面は、映画「マナスルに立つ」に撮られ上映されています。

【結び】

マナスル登山の成功が戦後の社会に及ぼした影響は想像を遥かに超えていました。暗い世相の中で明るい話題として、勇気と力、夢と希望を与えた事はいうまでもなく、経済産業技術への信頼、そして1952年、独立国に回復後わずか4年にして、早くも欧米諸国にわが国の自立の力を示した事は、ヒマラヤ8000m14座一角に記された金字塔の業績がその証の一つでもありましょう。
やがて登山ブームのきっかけともなった53年前のその登山隊に2度も参加できた幸運と体験は、私の人生にとって大きな財産となっています。掘田先輩の驥尾に付すことができたことはその一つに違いありません。堀田さんの談話は多岐に亘り、その中でヒマラヤ登山だけを拾い上げたので、個人的なことになってしまいお読み苦しい点、多々はご容赦ください。
マナスル登山から半世紀を過ぎた現在、堀田さんから元気にお話を聞けたことに感謝の念でいっぱい、良い軽井沢の訪問であったと思っています。

以上

「野帳」238号2789頁以下(2009.12.1刊行 発行人早川禎治 山岳同人 北の野帳社)収録

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2009年11月15日

平野(旧姓桜井)清茂岳兄を偲ぶ(S22-25卒):大塚博美

平野(旧姓桜井)清茂岳兄を偲ぶ(S22-25卒)

平成21年7月27日   大塚博美(S23年卒)記


彼と電話で話しをしたのは白馬二重遭難50周年追悼の年だから平成19年3月だった。車椅子の不自由さ、思いは馳せるが山には行けないので皆に宜しくと掠れた声も力なく、慰めの言葉にも詰まり暗く重い想いが心の底に沈んだ。それから2年余り、来たるべき時がきた。平成21年7月8日、永眠。享年82歳。

『厳冬季の畳岩尾根合宿の平野』

昭和22年12月畳岩尾根の新ルートから奥穂高に登頂(12月22日)成功した時のC1でのメンバー6人の写真があるが、撮影した私と児島弘昌を含めて8人のメンバーでの登山だった。
戦後初期の新入部員の中でもとりわけ印象深い者に平野がいた。厳しい冬山合宿の中でも愉快な話題の豊富な一人であった。百万遍の言葉よりここに掲げた一葉の写真こそが総てを語ってなお余りあると信じて改めて紹介したい。

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(右から2人目が平野)

風にはためくMの旗、この8人のひとり一人にとって、生涯忘れえぬ体験をしたに違いない。凄い冬山であったことはこの時代背景のなかで合宿を完遂したことにある。旧部員は広羽清君と私、あとは1~2年生、皆冬の穂高は初体験だった。この写真は今でも私に語りかけてくる、若さと強靭な体躯、情熱と不屈の闘志、チームワークの力が時空を越えて甦ってくる。実にいい雰囲気だ、拘りのないリラックスしたこのポーズには“どうだやったるぜ”のオーラが立ち昇るのが見えるのだ。

『喪主茂美さん(長男)の挨拶』

父の病床にあったノートの中から彼の想いの言葉が紹介された。
「山の頂を吹く風のように自由でありたい」と。父は山のことになると何か他のこととは違った反応をしていました、と。
私は彼の出棺を送る中で、一瞬63年前の畳岩尾根にワープしC1にはためくMの旗を想いだし合宿での闊達な彼の面影を偲んだ。あの8人のなかで今彼を送れるのは大嶽隆治君と私の2人であるが、同じ仲間の8人同志の強い絆の連帯はいまも変わらない思いだ。
あの敗戦直後の昭和22年の冬山合宿の時代背景―手から口への食料不足、社会混乱―などは豊饒の現代では考えられない。若さというものはそんな厳しい世相にもめげず乗り越えてきたが、反面、山の貴方の空遠くの幸いの夢に逃避した衝動も隠せない。
“餅を食わせろ!”と言って食料係の大嶽に迫った永井拓治の迫力、飛騨側からの烈風をモロに受けて冷凍庫と化したC2での極限の停滞のこぼれ話だ。
“あっ”という間に私の前からルンゼに滑落して姿を消した児島の事故、C1からの撤収の時。“しまった“と愕然としたがもう遅い。がしかし、山の神の手は優しく彼を尾根下の取り付きで受け止めて紙一重で無事に帰してくれた。天運が若さに微笑んだエピソードだった。

『共に2度雪崩遭難からの生還の体験』

山と人との係わりあいのなかで遭難事故は避けられない。場所を同じくしても紙一重で生死が分かれることはしばしば見聞するところであるが、我々MACの戦後60余年の「ふみあと」の中でも昭和32年春山合宿の佐藤潔和の滑落事故、それの救援に向かった救助隊8名が2度にわたる雪崩に襲われその半数の4名が還らぬ人となった。生死を分けたのはただ運命としか考えられないが、生還者4名の中に平野と私がいたのだ。詳細は「追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告書」、「炉辺7号」に譲るとしてここでは彼を偲ぶよすがとしての体験談として語る素晴らしいリポートを紹介したい(遭難報告書138頁以下)。
「 「しまった」と思う前に顔を向けていた方向,山側に首を曲げながら本能的に2〜3メートルは全力疾走した。この姿勢は雪崩の一端が私をいやというほど雪面に突き倒す瞬間まで変わらなかった。
最初の雪崩と比べものにならない大雪崩であることを直感した。逃げながら見ていたのである。巻きこまれると同時に私は無抵抗であった。無意識に抵抗するものだと聞いたが,そのような記憶はない。またも暗黒その中でギシギシと雪のきしむ音がはっきり聞こえる。「ああとんでもないことになってしまった」と思う。いっぽう頭の中を走馬灯のように数々のことが映っては消えて行った。そして意識だけがものすごくはっきりしている。・・・もうだめだと観念した。まず家族の者の顔が1人1人刻明に,しかもめまぐるしい勢いで思い浮かんだ。たとえば女房はこれから先も私の家にいて一生過ごすのは気の毒だ,きっと母が彼女を実家へ帰すだろう。私に一番なついていた子供は父なし子になってこれからいったいどうして成人するんだろう。病身の母は郷里に帰るだろうが,すでに親兄弟もなくなったり,他家へ行ってしまっているからさぞかしつらい毎日を送るだろう。今年浪人し明春は希望の大学へ進むんだと勉学にいそしんでいる弟は,その望みが粉砕されるばかりか,あすからでも私の代りに働かなければならないし,「ああ弱った弱った」とめちゃめちゃ頭の中は混乱しているくせに,不思議と1人1人が整理されて目に映る。そんなことが友の足音を頭上にきくまで続いた。だがまた救われると知った時,これらは一瞬に消え」去った。
雪崩の死の淵にもみ込まれたほんの僅かの間に、生の一瞬を掴み取るまでの走馬灯のような映像の数々をこんなに明瞭な体験記に接した事は私には初めてであり驚くべきことであった。これは彼が父としての責任、人間としてファミリーを全力で護る、何が一番大事なのかを表していることだろう。
当時独身の私にははるかに及ばない、大事な人間性の暖かい側面であった。
この大遭難の後始末には膨大なエネルギーと費用を要したが、平野君ら地方の会員はそれぞれの立場で協力してくれた。MAC炉辺会の結束の力は一周忌には『追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告書』を刊行し責任の一旦を果たした。更に三回忌には『山から悲劇をなくそう!明治大学遭難実態調査委員会』(教育出版社)の研究発表を出版した。
これには槙有恒氏から心温まる序文が寄せられた。また山と渓谷社山岳賞を受賞した。若い4人の尊い命の冥福を祈りつつ碑前に添えられた。槙さんの揮毫による『追悼』の碑文は50余年を経て今なお現場の双子岩の岸壁に苔むしている。そして毎年の5月、新入部員の合宿の際には慰霊が行われ花が添えられている。MACの年間山行計画の一つとして定着し、誇り高い伝統を支えている。

『後記−越後の炉辺会の名幹事役平野君』

交通新聞社新潟支局(S27-47)に赴任してから7年ぐらい経った頃、“上野と新潟の真ん中は越後湯沢ですよ、東京と越後の懇親炉辺会をやりましょうよ”との呼びかけで早速湯沢温泉で懇親会が始まった。彼の明るい人柄、すっかり土地にも、酒にも馴染んで皆に愛された。それに記者の身軽さで幹事役はぴったりであった。越後の炉辺会員には錚々たる大物が揃っていた。
遠藤久三郎(T12-S3卒)・小出 漸(S3-10)・石本省吾(S7-8)・森谷周野(S11-13)・林孝五郎(旧上田、S14-19)・中西扇次(S14-16)
会長の交野武一(T15-S8)より先輩の遠藤さんがいるし、なんといっても同年卒に『越の寒梅』の石本さんがいる。これだけでも数より中身と見れば、越後衆には頭が上がらない。5、6回やったろうか、その中で一番の思い出は石本さんの本宅で『越の寒梅』原酒での炉辺会、会長恒例の裸踊り、負けじと若手の児島のフラダンス。下戸の私でも原酒が水のように爽やかに飲めたことは忘れられない楽しい思い出の一齣だ。ここに昭和34年4月の清水部落・巻機山登山の炉辺会の記念写真がある。記録の為に平野君を偲んで後記とした。

明治大学山岳部炉辺会発行「炉辺通信」163号(2009.9.25)16頁以下所収
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2009年06月20日

加藤慶信追悼展(南アルプス芦安山岳館 記:大塚博美20090620)

加藤慶信追悼展 オープニングセレモニー

2009年6月20日 於 南アルプス芦安山岳館
主催 南アルプス芦安山岳館・明治大学
共催 山梨日日新聞社・山梨放送 山梨県山岳連盟
後援 甲府支局メディア各社、その他

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 『あいさつ』  元日本山岳会会長 大塚博美

 ご案内の企画展が、主催者・共催者・後援者関係者各位のご努力によつてこのたび開会の運びとなりました事は、真にご同慶のいたりに存じ上げます。

 ただ今ご紹介頂きましたように、私は明治大学山岳部OBの炉辺会員でもありますので、加藤慶信君より半世紀余りの先輩となりますので、さすがに山行を共にしたことはありませんが、2007年の夏、富士山の本7合の鳥居荘の前で後輩の同伴サポーター2人と休んでいるとき、大勢の団体の中で小学生2人に付き添っている加藤君を偶然みつけて、“あっ、加藤だ”と同伴者の菅原君の声に顔を見合わせ、お互い奇遇にびっくりしたことがありました。彼の腕には案内人組合の腕章がありました。

 その時に加藤君は、既に80006座に登頂している若手のホープでした。少しでも恩返しにと故郷の富士登山のお手伝いをしていると聞きました。清々しい爽やかなオーラが匂いたつ面影を昨日のように追憶します。

 ヒマラヤ8000段の天空の頂をめざして、己の信じるところにベストをつくして登攀するのが、かれの信条であったのではないでしょうか。

 翻ってみれば、今の大学山岳部の凋落は最早なす術もないほどの低調さであり、部員の減少はまだしも休部・廃部に追い込まれた大学もあるくらいと聞いております。

 加藤慶信君の母校の明治大学山岳部はこんな学生登山界のなかにあって、常に独自な新たなる目標をかかげ、アルピニズムへの挑戦を伝統として継承している稀有の存在であり、“強い明治”のシンボルは驚きと尊敬の念の他ありません。

 伺えば明治も他の大学山岳部と同じような多くの困難、休部の障碍などがありましたが、強力なOB会の指導で立ち直つたようです。

 また大学創立100年・120周年記念のヒマラヤ登山計画の実施に際しては、大学当局のご理解と強いご支援を得て、それをバネに今日に及んでいると伺いました。なんとも羨ましい次第であります。

 その成果の一つに『明治大学創立120周年記念事業・ドリームプロジェクト(800014座登頂計画)』の無事故で完結したことがあります。

 これは世界初の偉業といえましょう。

 また谷山宏典会員の手記による臨場感溢れた『登頂8000叩縮声B膤愡崖拮14座完登の軌跡』の著書があり、これを実証しております。

 加藤慶信君は現役時代にこの計画に参加し、まず第一歩を1997年マナスル(8163)の頂に足跡を残しました。以降6年間このプロジェクトの実施の若手のエースの一人として全身全霊をこれに傾注したとうかがっております。

 現在、3年後に迎える明治大学山岳部創部90周年の登山計画が検討中と聞きましたが、多分それには加藤慶信君の霊に答えるに相応しい、自由と創造性に満ちたものではないかと推測いたします。そしてそれは南アルプス芦安山岳館にとつて、今回の企画展を継ぐにふさわしい内容であることを信じております。

 加藤慶信君の追悼展のご成功を祈ってわたくしの挨拶を終わります。

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2009年04月03日

中村保さんの「チベットのアルプス−ヒマラヤの東」:大塚博美

Oestlich des Himalaya - Die Alpen Tibets
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 JAC(日本山岳会)で4年間(1999〜2003)役員を共にした中村保氏から2008年8月付けの現況レポートが届いた。今から半年前の事だ。
 タイトルには『王立地理学協会(Royal Geographical Society:RGS)からメダル受賞、ドイツ語版「チベットのアルプス」出版及びアルパインクラブ(英国)名誉会員』とあった。
 「今年もよい事が三つ重なりました。「今年も」と書いたのは昨年のアメリカ山岳会名誉会員、UIAA(国際山岳連盟)の表彰に続いて、三つの慶事が実現したからです。」と書き出しにあった。
 「凄い!やったな」文武両道・稀有の逸材との印象を持っていた私は、むべなるかな、と心から拍手を送った。彼が未踏の「チベットの東」を18年間29回に亘り踏査の模様を英国・欧米世界の登山会へ発信し続けた実績からいえば受賞は当然であった。
チベット探検家のスウェン・ヘディンは、遂にチベットの東には足を踏み入れることはなく、この地域は空白のままになっていた。彼の探検と地理的調査が評価の対象となり日本人初の『王立地理学協会Busk Medal 2008』を受賞した。
 昨年はクーラカンリの遭難事故などがあり、炉辺通信に寄稿する機会を逸したが、中村保氏の業績は既に三冊の書籍、「ヒマラヤの東」(1996 山溪)、「深い侵食の国」(2000 山溪)、「チベットのアルプス」(2005 山溪)に発表されていて高い評価を得ていた。一方、JACの海外担当理事として2001年から海外向けの英文誌「Japanese Alpine News」を発行し始め、2008年5月9巻に至るまで欧米他海外登山団体に発信し続け、JACの伝統と信頼に大きく寄与した。その功績で2003年JACの第6回秩父宮記念登山賞を受賞した。そして2008年の年次晩餐会において名誉会員に選ばれ、会長から特別功労賞を受けた。なお、2007年韓国での第2回アジア「黄金のピッケル賞」の審査委員長を務めている。
 また、JACの会報「山」2008年5月号と8月号に表題のことについての詳報が掲載されている。5月号では神永編集長のインタービュー記事、8月号には中村保氏の寄稿による「光栄の王立地理学協会メダル授賞式」と題してその模様が的確に語られているので、詳細はこれに委ねるとして、ここでは私の印象をもう少し彼のルーツである一橋大学山岳部OB会の針葉樹会のことと、贈られてきたドイツ語書籍の豪華大型版について紹介したい。

〜針葉樹会の人々〜

 中村保氏は一橋大学山岳部1958年卒(74歳)、57年滝谷グレポン初登攀の記録ある先鋭的クライマー。卒業後石川島重工(株)入社。61年一橋大学山岳会アンデス登山隊(L吉澤一郎57歳)に参加、隊員6人は全員20代、中島寛も若手(21歳)として参加している。ペルーのプカヒルカ北峰(6046m)初登頂他ボリビヤ山群で二つの初登頂を行う。1962年から石川島播磨重工(株)の海外プラント輸出業務に携わり、以降68〜98年に至る30年間に亘りパキスタンのカラチ、中国、メキシコなどの事務所長、NZ事業部長、海外プロジェクト部長、香港有限公司社長など歴任しハードな業務を幾多に体験。語学に堪能、優れたマネージメント能力を修得。香港赴任の翌年、90年から07年の18年の間、未知な中国南西辺境に魅かれ、29回も足を運び新鮮な記録と刺激を提供した。
 小谷部全助氏といえば戦前の昭和10〜13年冬季の北岳バットレス第3尾根、5月の第4尾根、3月の鹿島槍荒沢奥壁北稜、前穂高東壁北壁などを何れも初登頂、華々しい足跡が残されている。「小谷部全助」の名前は、戦前の私の脳裏にすり込まれている。
 大学山岳部が黄金時代であったこの時代の代表格は、何といっても立教大学山岳部。昭和11年堀田弥一隊長率いる立教大学隊のガルワル・ヒマラヤのナンダコート(6867m)の初登頂は海外遠征登山日本初の金字塔である。
 吉澤一郎氏(94歳逝去)は、一橋大学山岳部創立メンバーの一人として吉澤イズム−実践・研究・思索−の三位一体論を提唱し、一橋大学山岳部の伝統の基礎を創る。1961年初の海外登山、アンデス登山隊長(57歳)として20代の隊員6人を纏め大きな成果を上げ、その後のヒマラヤ登山の第一歩の基礎とする。吉澤氏がJACの副会長の時にエベレスト登山計画があり、私も担当理事として良き先輩としてご指導を得た。JACからの帰宅時に同じ方向であったので、私のワーゲンに便乗された時などに伺ったエピソードは、老クライマーの面目躍如であった。特に海外連絡委員長として、その堪能な語学を駆使して長年欧米各国への連絡担当者として貴重な存在であり、その知識と人脈はJACの宝であった。
 同じ頃、明治大学は1960年大学創立80周年記念、アラスカのマッキンリーに学術登山隊を派遣、交野武一隊長(61歳)、登山・学術隊員7人(OB3人・学生4人)いずれも20代。ヒマラヤ登山に備えての気合充分で成果を挙げた。また、東映が記録映画を製作上映して話題を提供した。このことは炉辺会会員は先刻ご承知のことであるが、針葉樹会のアンデス隊と全く隊長・隊員の年齢編成が同じなのが愉快である。
 望月達夫氏(1914〜2002 88歳)は、一橋山岳部で小谷部全助氏らと北岳バットレスなど厳しい山行を行ったクライマー。JACでは、著作本、評者、編集を担当し逸材ぶりを発揮。75年副会長就任、85年名誉会員に推挙される。私より10年先輩の望月さんに接し、マナスルからエベレスト登山に亘って数多くのご指導を得た。その博識と知性、優しい面影は忘れられない。
 中島寛氏(1998年逝去 60歳)は、1961年一橋大学山岳部アンデス登山隊参加。JACエベレスト登山隊69年偵察・70年本隊参加、南西壁の登攀メンバーの中核として活躍。準備の為の事務局長を自ら買って出て総てをこのエベレストに賭けた。彼の手記を纏めた追悼出版「一期一会の山、人、本」(1999)には彼の山への深い思い、厳しい登攀を支えたアカデミックな学識・哲学が表れていて将来の岳界を荷うリーダーとして嘱望された逸材であったことが伺える(フルマラソン自己ベスト3時間17分。彼らしい側面の一つ)。1970年のエベレスト登山の本隊では、松方三郎隊長の下で登攀隊長を努めた私にとって、今は亡き小西政継、植村直巳など数多い個性的な猛者の中にあって、彼の文字通りの文武両道の若武者振り、匂い立つオーラが懐かしい。惜しまれる急逝である。
 各大学山岳部はそれぞれのカラーで歴史と伝統を伝えているが、現役部員の減少は大学山岳部共通の悩みであり、社会情勢の変動からどこの大学山岳部も避けられない。いかにして現役を各年代に確保するかということは90年代以降きわだってきた。伝統は力なり、といわれるが、スパイラルに継続することこそが強い伝統の力を紡いでいくものだ。暗い闇の次には、必ず明るい陽りがやってくる。自然の摂理だ。あせらずにゆったりいくしかない。

〜『Ostlich des Himalaya - Die Alpen Tibets』ドイツ語版〜

 08年夏、ドイツ語版豪華本と暑中見舞いが届いた。それには「大塚博美様、暑中お見舞い申し上げます。ドイツより本が届きましたのでお送りします。立派な出来になりました。折りを見て、都合のよいときに、明治大学山岳部にご寄贈いただければ幸いです。猛暑が続きそうです、くれぐれもご自愛下さい」とあった。
 ずっしりと重い大判の、その美しい表紙の見事な写真と装丁の豪華さに圧倒された。大判(24.29cm、288頁)で、テキスト、カラー写真265枚(中村氏の物が90%)、地図31枚(地形図が圧巻)の構成。内容は、揚子江の西側・ニンチェンタングラサン東部・カングリガンポ・深い侵食の国(三河併流)の範囲。二年掛かりの編集でドイツ人のペドロさん(出版社・精神科医)あっての出版。中村氏とペドロさんとの関わりは、「Miniya Konka」出版の際に中村氏の写真を提供したことがきっかけのようだが、人格・知性ともに優れ、多彩な能力をもつ息の合った素晴らしいパートナーを中村氏が得たことは幸運だった。「老年探検家冥利に尽き」る彼は、この2月8日、ロンドンアルパインクラブ会員総会にて名誉会員に推挙されている。
(2009.2.15記/明治大学山岳部炉辺会「炉端通信」161号H21.4.3発行)

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2009年03月20日

わたしのテレビ朝日(NET:日本教育テレビ)就職当時のころ(昭和33年):大塚博美

昭和23年明治大学卒業。山三昧。マナスル登山隊に参加。
マナスル登山第三次が昭和31年(1956年)成功。
読売放送にも就職の働きかけをしたが、白馬二重遭難が1957年3月にあり、就職を遅らせる。
昭和33年(1958年)暮れに、日本山岳会会長だった松方三郎さんに就職先の斡旋を依頼。

当時、共同通信社にいた松方三郎さんを訪問。

大塚「白馬遭難の報告書もできまして、一段落しました。
   テレビ局に就職したいのですが

松方「よしわかった

と、その場で松方さんは日本教育テレビ:NET(現テレビ朝日)開局準備室の松岡謙一郎さんに電話を掛ける。

謙ちゃん、テレビにはフィールドワークができる人材が必要だよ

その当時、松方さんは電波監理審議会会長であったことはあとで知る。

5人が面接に立ち会う。
場所は新橋に3ヶ月ほどあった日本教育テレビ局開設準備事務所。


編集局長 松岡さん
旺文社  赤尾好夫さん
東映    二所宮専務
文化放送
朝日新聞

松方さんの登山に関する事前説明に対して、二所宮さんがわたしに、笑って

それじゃ、キミ、ニコヨンとかわりないじゃないか

即決。


年を越して、新卒が入ってくる。かれらより10歳年上なので兄貴格で立ち回る。
新卒は40名入社。うち編成局所属の10名の新卒者を引き連れて麹町の日本テレビで研修。

その後、わたしは大阪の読売テレビへ1ヶ月研修へ。
会社の旅費規程も当時なくて、旅費もなにも出ず。帽子が回ってカンパもらうという、いまでは笑い話も。

昭和34年4月本放送開始。開始直後槍ヶ岳夏山実況中継(7月)。テレビ界初の山からの実況生中継となる。
山のメンバーをピックアップ編成。
中尾(明治)、菅原(明治)、小倉(早稲田)、堀口(立教)、友田(津田塾)という布陣。
中京テレビから技術協力を得る(中京テレビしか持っていなかった、箱形ハンディのアメリカ製小型カメラの提供)。

槍ヶ岳山頂の大観
小槍のロッククライミング

その年の冬、雪男学術探検隊(小川鼎三隊長、林寿郎東大教授、山崎英雄札幌医大)の記録を13回にわたって放送。
エベレスト東面をカラパタールから日本人初の写真を撮影。

夏山放送は、昭和34年に続いて35年(奥穂高サマースキー)、36年(谷川岳ロッククライミング)を実況中継。
営業から「売れない」と泣きが入って、37年(立山のボッカ)はフィルム構成。

松方三郎さんとのかかわりは、1970年のエベレスト登山へと繋がる。
1970年登山は、NHKの放送なので登山隊参加のため辞表を総務に出す。総務はあっさり受理。
しかし、松岡さんが「オールジャパンのメンバーなんだから」として、却下。クビがつながる。


大塚博美
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2008年09月19日

日本クーラカンリ登山隊2008

中国チベット自治区、ブータンとの国境近くに位置する
クーラカンリ山(主峰7538m)。
これまでに完登を許していない北陵からの主峰登頂、
そして東峰から主峰への初縦走を目標とする登山隊です
(後援:読売新聞社)。

メンバー7名のうち、明治大学山岳部から3名が参加して
います。

9月からブログが立ち上がっていて、登山隊の活動がリア
ルタイムで伝えられています。

日本庫拉崗日(クーラカンリ)登山隊2008


ブログにあるグーグルアースのデータもすごくて、登攀ル
ートなど、地理が手に取るようにわかります。

隊長高橋和弘さんの想いが結実した登山隊。
登頂予定は11月。
どうかみなさんご無事で、成功をお祈りいたします。

   ----------------------------------------

■追記(08.10.02)

ああ、なんてことでしょう。
雪崩に遭って3名遭難。
明治、早稲田、日大。 

   ----------------------------------------

■追記(08.11.8)

学習院大学を会場として、報告会が開催されました。
雪崩によって、実力のあるかたがたが、いっぺんに
3人(1人も残らずに)もやられてしまった。
返す返すも残念です。


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2008年05月24日

シェンクのピッケル 故郷に還る:大塚博美

シェンクのピッケル 故郷に還る

  明治大学山岳部炉辺会 大塚博美(S23年卒)


シェンク1シェンク2











〜〜二本のシェンク〜〜

 故村井栄一明治大学山岳部炉辺会会員(S9卒、S46没)の所有していたシェンクのピッケルが、70年余の歳月を経て平成20年3月、大阪から信州上田に還った。
 ところで、明大山岳部(MAC)の創設者のひとりである米澤秀太郎会員(T12卒、T13没)が山岳部へ寄贈した物品の中にシェンクのピッケルがある。そのピッケルには「Meiyu Alpine Club」の金の象嵌がされておりフィンガーには米澤秀太郎の名前が彫り刻まれていた。シェンクのピッケルは、後掲の失敗談もあって私にとって深い係わりのある名品なので、このたびの村井さんのシェンクのピッケルについての経緯をメモに書き留めておきたい。
 
〜〜村井さんのシェンク〜〜

「預かり人」北口礼吉氏(93歳):(株)北口山スキー研究所社長、大阪市北区西天満在住。
 北口山スキー研究所は昨年、創業60周年を迎えたが、北口社長は高齢と体調を考え、今年3月をもって専門店を閉店した。関西では岳人に惜しまれつつの老舗山岳運動具店の閉店となる。
 北口社長の唯一の気がかりは、戦前から預かったままになっている村井氏のピッケルのことだった。このピッケルをなんとか村井氏の家族のもとに返したいと宛先を探したがはっきりしない。そうした経緯を経て松浦輝夫氏(早大山岳部OB稲門山岳会)から入院中の北口社長の意向が私に届いた(平成20年1月末)。
 その時の話では、「閉店までに分からなかったら明大山岳部の方で預かって下さい。宅急便で送ります。」等ということで暫く様子を見ることにした。

〜〜村井家との連絡〜〜

 2月末、炉辺会新名簿が届き、早速故村井栄一氏の上田の家に電話を入れた。話が伝わるか半信半疑であったが、電話口では、「はい村井です」「明治大学山岳部OBの村井栄一さんのお宅ですか」「はい村井の息子です。」
「私は村井さんの後輩で昭和23年卒の大塚博美と申します。唐突にお電話申し上げますが、お父さんの遺品のピッケルを預かっているひとが見つかりました・・・」と、今までの経緯を話した。
「びっくりしました。本当ですか、嬉しい事です。私はスキーばかりで山はやりませんのでピッケルの事はよく分かりませんが、お任せいたしますのでよろしくお願いいたします。」と、息子さん。
 こうして、後日ピッケルの取扱いについてあらためて連絡することにした。
 
〜〜北口社長の代理人、木村氏と連絡〜〜

 息子さんとの電話の後、すぐに木村さんに連絡をとり、息子さんの住所が分かりピッケルの話しをしたことや息子さんが驚き、大変喜んでいたことなどを伝えた。
 木村氏「よかったですね、北口社長の意向を伺いご連絡いたします。」とのこと。
 翌日、木村さんから「北口社長は是非(木村が)上京して手渡しするように、との厳命です。」との連絡があった。
 ところで、木村さんは立命館大学卒、京都伏見稲荷山での家業の傍ら、山スキー研究所をサポートし、特に研究所創業60周年記念展示会では「植村直巳の足跡」の開催において北口社長の山の専門店としての理念を植村スピリッツに寄せてメッセージの発信を取りまとめ成果を上げている。なお、松浦輝夫氏とは植村直巳の思い出話や山の厳しさなどの話で協力した経緯があった。

〜〜ピッケルの受渡し〜〜

 平成20年3月25日。正午、日本体育協会ホール(代々木)。村井さん・木村さん・仲介人大塚の3者が揃う。
 木村さんから、梱包を解いてピッケルを村井さんへ。70年余の歳月を経て村井OBの魂のピッケルが息子さんの元に還った。「E.MURAI」の金の象嵌が見事に打ち込まれ、シャフトのヒッコリーには腐敗防止の塗装がされていた。まことによい手入れがなされている。預かった北口社長の山の道具を大切にする心が伝わってくるようだ私も手に取らせて貰い、立ち上がってシャフトの長さを計った。村井OBの背丈に合った長さだ。昔の長さのシャフトである。しばし感に打たれる。
 積もる話は山ほどあり、原宿でのランチを挟んで午後2時頃までたいへん爽やかないい時を過ごした。

(注記)

「村井栄一氏関連」:

 明大山岳部には昭和5年から9年まで4年間在籍している。S11立教大学のナンダコート登頂が大学山岳部の黄金時代の象徴であるように、部活は盛んであった。(明大山岳部・炉辺会編「明治大学山岳部80年誌」(2002)参照)。
 半面、時代背景は満州事変(S5)から支那事変(S12)へと戦雲の影が濃くなっていた。そんな中で台湾遠征登山(S14・15)を実施している。
 村井氏は卒業後、関西へ赴任。兵役を含めて大阪に在住。この間、山スキーを盛んに楽しみ美津濃運動具店の北口礼吉さんと交遊していたことからシェンクピッケルを北口さん経由で入手した様子(S14〜5年頃ではないかとは、木村氏談。なお、村井氏のこのピッケルには、シェンクのマークのほかに美津濃など他ブランド銘の刻印は無し。)シェンクのピッケルが北口社長のもとで保管された経緯の詳細は不明。S33村井氏は上田市に帰る。
 息子さんの話。「小学校3年生まで大阪にいて父にスキーを教えてもらった。そして今は日本体育協会公認の指導員として父のイニシャルを採りジャパン・イー・エム・スキークラブを創設(S43)、東京都スキー連盟に登録して活動している。嫁に行った娘も長野県スキー連盟の指導員として軽井沢のプリンス・ホテルの人工スキー場で仕事をしている。」と、父の指導の大きさを語っていた。そしてご母堂もご健在とのこと。
 村井栄一氏が登山隊長を務めたものとしては、1967年(S42)5〜7月、長野県山岳協会ペルー・アンデス登山隊10名の隊長として(上田山岳会 54歳 大修館勤務)、サンタクルス・ノルテ(5829m)登頂。成果を挙げる(日本山岳会編「山岳」第63年(1969)参照)。
 
「シェンクのピッケル」:

 スイスピッケル鍛冶のひとつ。槇有恒「わたしの山旅」(1968年 岩波新書)でも触れられているが、槇さんが日本へ持ち帰った槇さん用のオーダーメイドのシェンクのピッケルが、山内(仙台)や門田(札幌)のピッケル製作の原型になった。
 なお、わたしはマナスル登山(1956年)では、普段山行で使っている重めの門田ピッケルではなく、門田にマナスル用にオーダーして軽め(シャープさ重視、ステップが切りやすいようにした)のものを製作してもらって使用した。

「長野県山岳連盟と炉辺会」:

 1964年、長野県山岳連盟主催ギャチュンカン遠征隊(L古原)初登頂、1名滑落遭難死。
 1965年、明治大学ゴジュンバカン遠征隊(L高橋)初登頂。植村直巳とシェルパ。
 ギヤチュンカンは明治大学も狙っていたが、長野に先を越された。そのルートは雪男探検隊(1964、65年冬)の時、ゴジュンバ氷河探査の折に有望なルートを発見して明治はそこを準備したが、登山許可は長野県が取得した(「山岳」第60年(1965)参照)。
 
「上田市と私」:

 兵役で上田飛行場に駐留していたことがある。S19年末から20年2月まで、陸軍第3期特別操縦見習士官として海外派遣の待機の為である。千曲川の左岸の河川敷を整備した赤トンボ(二翼練習機)用の場であった。そこでは飛行訓練のない操縦見習士官はただの穀潰しに過ぎなかったが、美しい信州の自然と温かい民情、偶々寝台戦友になった大橋寿一(MAC同期)と過ごした楽しい外出の事などは、歳月を経ても何かの折にふっと思い出すことがある。
 息子さんとの話しのなかで、「そう言えば、母は娘の頃赤トンボが飛んでいるのを見たことがある、と言っていた」とのことで、その一言でもピッケルの取り持つ縁で炉辺会員村井栄一先輩のファミリーとの絆が生まれた。

「米澤シェンクとともに雪崩に巻き込まれる」:

 私の山の失敗談。1949年(S24)MAC、6月の奥又白合宿(L永井、金澤、星野ら7名)、冬の明神東稜の偵察と残雪期の登攀訓練。いつもは門田(札幌)ピッケルを使用しているが、この山行では、米澤シェンクを借り出している。OB2年の私は一人遅れて東稜を辿り、前穂の下で下山中の永井らと合流して下山を始めた。その下りのグリセード中に失敗し、A沢の50m大滝をジャンプして奥又白谷に叩き落とされた(地形から見て高差300m、長さ800m程)。腰を強打し一瞬気を失うが、ハッと気がついて体を確かめたが大丈夫、ただ右手首が痛むのでよく見るとピッケルバンドが切れて米澤OBのシェンクのピッケルが見えない。腰が痛くて立てなかった。暫くしてヨーデルが聞こえ永井らが駆けつけてくれた。山を甘く見た、軽率なグリセードだった。
 
「シェンクのピッケル探し」:

 上高地帝国ホテルの木村管理人小屋で打撲の治療に10日ほど滞在。デラ台風の襲来でバス路線は崩壊、梓川も大荒れで下界とは途絶えた状態で、私にはかえってうってつけだった。6月25日、体調はまあまあだ。新緑が目に沁みる。徳澤園の上条進さんに挨拶。単独で奥又白にピッケル探しに行くことを話す。
 「・・・でかい雨が降った後で雪もかなり減っとると思うで、たぶんピッケルは雪の上に出とると思うでなあ、・・独りだで無理せんと気つけてな」と。山の主の温かい一言に大いに勇気付けられた。
 黒々とした大滝の岸壁基部のベルグシュルンドの固い氷壁のような雪渓に、ピッケルが突き刺さっているのを発見。無事回収し撤収したものの、ピッケル探しは困難をきわめ都合10時間かかった。
 進さん、木村さん共に喜んでくれた。何はともあれ部の伝統の米澤OBシェンクのピッケルを無事回収でき面目を保った自分に対して「よかった、よかった、よくやったよ」と、納得し自らを慰めた。60年前の青春の回想の一駒。
 (「楡の木は知っている」−徳澤園の歩み−創立50周年記念出版(S58.6月発行)の内、私の著『山での失敗−前穂東壁A沢の大滝をジャンプ−』から抜粋加筆)
 
「あとがき」:

 ピッケルの管理について家族の意向が決まり次第、決めたいと思う。東京板橋区の植村直巳冒険館、明治大学山岳部、大町の長野県山岳博物館等が考えられる。


平成20年4月6日記

(明治大学山岳部炉辺会「炉辺通信」158号用原稿を一部修正のうえ掲載しています)


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2007年10月29日

富士登山―83歳の体力測定―:大塚博美

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富士登山―83歳の体力測定―

明治大学山岳部炉辺会 大塚博美(S23卒) 07.09.10記



“まだ83歳だよ”と元気印を標榜しているが、7年振りの富士登山。
果たして結果やいかに。

サポーターは加藤博二君(S35卒71歳)、加藤啓一君(旧姓菅原S34卒71歳)の強力な助っ人。
2人が山中2泊3日でゆっくり無理のない登山計画とマネージメントを以下のように立ててくれた。

2007年8月28日、新宿朝一番の高速バスで河口湖富士山5合目(2305m)へ。
その日は白雲荘(3200m)泊まり。
翌29日、頂上(3776m)往復白雲荘泊。
30日、河口湖5合目へ下山、高速バスで新宿。


高曇りの天候に恵まれて標高差1471mをなんとか2日掛かりで無事登頂。体力テストを体感できた。
富士山は大きく厳しくて難しい、今の私の安全圏に富士はない。
2人の気心知れたいい仲間の「介護」なくしては楽しく充実した登山はできなかったろう。
感謝を込めてお礼を申し上げると共に、私の心に残る富士山の感想のいくつかを述べてみたい。


『こんな筈ではなかった』

5合目から最初の鳥居の7合目(2700m)まではトップ菅原君、ラストは加藤君のオーダーでいいペースで行った。
“少し早いのではないか”と、加藤君は言うくらい。
ところがここから始まる岩場のルートになってすっかりペースが乱れた。
“岩場ルートがこんなに厳しかったかな〜”
いままで何遍となく登り下りしたか分からないが、私の記憶のなかの印象にはなかった。

団体登山の若い男女、子供連れの親子、皆スイスイ追い越していく。
“ガンバッテ〜”と若い娘が声をかけてくれる有様。
後ろから加藤君がしびれを切らしたのであろう介添えしてくれる、文字通りの「手とり足とり」である。スタンス、ホールド、コースの指示、そこは四つんばい、と。
鎖につかまって息を整えるのが精一杯、ここを抜けきるのに2時間余りかかる。

やっと8合目の東洋館(3000m)に近づくと更に上の方3軒先に、白雲荘(3200m)の看板が読み取れた。
午後4時。登りはじめて5時間もかかっている。
“生あくびは出るわ、頭はフラフラするしジグザグの登山道は一辺しか続かない。
3000mの高度とカロリー不足のせいか低血糖の感じもする。
ホノルルマラソンを思い出したりしても術はない、強力200Kcalゼリーを取り出して一気に飲み込むのが上策だがすでに手遅れだ。
再三、菅原君が“背負いましょう”と手を伸べたがついに8合目の救護所(3010m)あたりで菅原君に荷物を預け空身となった。
いままでにないことだが、これが83歳の現実の体力だ。

太子館(3020m)で一休み、団体が続々と追い越していく。
と、菅原君が“あっ、加藤だ!”(加藤慶信、H12卒)と声を上げる。炉辺会の若手ホープの加藤君だ。
“あっ、大塚さん達”と彼もびっくりした様子。彼の腕にはプロガイドの腕章が着いている。
見ると小学生低学年生2人に付き添っている。“この太子館で仕事しています。明日頂上でお会いしましょう!急ぎますから。”
なんとこんな所で「炉辺会の3加藤」が会するとは真に愉快だ、と大笑い。

それにしても、今回の菅原君はへんに憑いている。5合目の歩き始めから1銭、百円、そしてストックのゴムの石附・・・と拾い捲った。
そしてついには加藤(慶)を見つけている。

さて、休んでいては小屋には着かない、あと2ステップで白雲荘だ。
ジグザグのガレ道、辛抱と気力でゆっくり登る。午後6時、想定内時間の到着。
悪戦苦闘もあったが、空元気の気力の第一日だった。


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『あんがいな頂上』

朝6時発、8℃、昼飯と水を預け今日も空身。
約600mの登り、加藤君は「昼飯は頂上だな・・・」と想定時間を誰にともなくつぶやく。
私に暗示をかけているかのようだ。朝飯は生卵、納豆、みそ汁としっかり摂り気力も充実している。
本8合目(3360m)富士山ホテル、7時頃、好調だ。9合目御来光館8時頃、まあまあのペース。
あとは頂上への急坂の先に2つの鳥居が望める。
ゆっくりとリズムをとりジグザグを繰り返すとなんと鳥居が目の前だ、最後の鳥居の下で加藤、菅原両君が待ち受け、“ガンバレ84歳、あと一息だ!”とエールを送ってくれる。
私も「あとはこの10数段の石段だ」と、気合を入れストックを握り直して登りきった。チラリと1956年マナスルのスノーエプロン登攀が脳裏をかすめる。
“おれはまだ83歳だ!有難う!!”とエールを返すと祝福の大笑いが大空に拡がった。
午前9時10分頂上に立つ。登りはじめて3時間ほどだから、あんがいなものである。
余裕の2人はお鉢巡りのショートコースへ向かう。

午後2時、白雲荘へ入り泊まり。

下山の朝600時、バス登山客の付き添いのガイドや小屋の番頭のせきたてる大声が響く。
“121号の皆さん点呼をとりますので急いで外に出てください。122号の皆さんも後につづいてください!”
強風の元でバス2台の登山客の下山風景は見物であった。我々もこの後出発した。


『富士山あれこれ』

*外国人登山者

何故か年齢を聞く外人登山者。仙人にでもみえるのか。
頂上で休んでいる時、若い2人のアメリカ青年が礼儀正しく“お歳はいくつですか?宜しければ一緒に写真を撮らせてください。”と聞いてきた。
“OK。だが、私は幾つにみえますか?”と聞くが、はっきりした返事はかえってこない。
写真を撮ったあとTシャツ・短パン・スニーカーの彼らに加藤君がいろいろ話しを聞く。
北方の地方に住んでいるから寒くない、5合目から往復だと。何で富士登山をやったのかは聞き漏らした。

下山のバス停で会った3人のフランス青年達。着替えとパッキングを終えた私に日本語で歳を聞いてきた。
“失礼ですがお幾つですか?”と正しい日本語だ。
“日本語できるじゃない!私は幾つにみえますか?”と反問し3人を見回すと6、70歳ぐらいと交々返事。
“83歳だ”と言うと、びっくりしたとの声。名古屋のドイツの自動車会社で仕事をしていて休みで来た、これから頂上往復ですとのこと。
トレビアーン、コマンタレヴ、と大笑い。10時頃のこと。

*ごみがない

ごみがひとつもみあたらなかった。
世界遺産にごみで汚いと落選させられたショックがが山の清掃活動に拍車を掛けたのであろうか、山小屋も清潔感でトイレは特別浄化装置を設備して臭みは殆どなかった。

*団体登山はバスツアー

閉山寸前8月末は空いていると思っていたが若い団体に出逢って、はてどうしてなんだと思う。
これも社会現象の一つかツアー会社の商品の一つとして日本一の富士山へ、河口湖口と須走口へ5合目までバスで都心から2時間でいけるアクセスのよさ。
観光と登山をシステム化したマニュアルがあるのではないか。白雲荘も500人収容の大きさである。


*帰宅その後

30日午後よろよろと帰宅。大腿部の筋肉痛は3日で消える。
ラジオ体操の日課とウォーキングなどの調整で体調は好調に進んだかにみえたが高血糖値が続き、疲労感が消えず体に張りがない。
薬量を調整。9月10日現在、このレポート校了で少し元気を取り戻す。

ジョギングも走れるようになって復調傾向だが、果たして完全復帰は何時になることか。
それが今回の体力テストの結果だと見ている。


『結び』

しおりに印刷されて手元にとってあるウルマンの詩の一節が浮かぶ。

「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらへる限り、八十歳であろうと人は青春にして已む。」
(『青春の詩』サムエル・ウルマン 訳宇野収・作山宗久)


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明治大学山岳部炉辺会「炉辺通信」156号(H19.10.28)掲載

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2006年12月28日

新刊案内 根深誠「風雪の山ノート―ある大学山岳部員の足跡 」(七つ森書館)

12月26日刊行の本書は、チベット紀行や白神山地保護活動で
著名な根深誠さんによるものです。

明大山岳部出身の根深さんの青春時代が語られています。

層の厚いS36年、37年卒部員に鍛えられたリーダー坂本さんに
これまたみっちり鍛えられた根深さん。
ちなみに植村直己さんは39年卒。植村さんはいちばんシゴかれた
年代だったようです。

多感な学生時代の厳しい山登りがあってこそ、世界初、
単独大学山岳部出身者による8000メートル峰14座全制覇の
偉業を成し遂げることができたのでしょう。

結果がすべてを物語っています。

なお、跋文をわたくしの父が寄せています。

風雪の山ノート―ある大学山岳部員の足跡

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2006年05月08日

マナスル登山50周年を迎えて

山
1950年ネパールが国をオープンにしたことをきっかけに(社)日本山岳会はヒマラヤ未踏峰マナスル(8136m)の世界初登頂を計画。


52年に偵察隊を出し、53年第一次本隊、
54年第二次本隊(サマ部落事件で頓挫)。
1年を置いて56年、第三次本隊により登頂成功へとつながります。

マナスル登頂から半世紀。
54,56年本隊に隊員として参加した私の父も
すでに80の年齢をこえています。


ところで、マナスル登山の総事業費は1億円
そのうち政府関係機関からは575万円の補助金、
毎日新聞関係1650万円、
募金7500万円など。

戦後10年ほどの時期にこうした壮挙を成し遂げたことで、
当時かなりのインパクトを世間に与えたようですが、
総事業費のうち一般募金が多くを占めていることからしても
初登頂に対する人々の期待、夢への想いの強さが
伝わってきます。


ちなみにマナスル初登頂当時の物価は
新大卒月給6〜9000円、コーヒー1杯30円、
為替レート1ドル:360〜400円(ヤミ)となっています。
((社)日本山岳会編「中国・日本・ネパール1988年
チョモランマ/サガルマタ友好登山 報告書」(1990年)より)



(社)日本山岳会のマナスル登頂50周年記念行事としては、
フォーラムやシンポジウムを開催、
ネパールトレッキングも予定(秋期)されています。


現在、「祝マナスル登頂50周年 藤田弘基写真展 マナスルを巡る
新宿のペンタックスフォーラムで開催中(5月18日まで)。


ペンタックスフォーラム



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2005年12月09日

新刊案内 中川一徳「メディアの支配者」(上・下)講談社(2005.6)

父から読んでみろといわれて読んでみたのが上下二冊の本書。
フジサンケイグループについて書かれたもの。

私はベルリンの壁崩壊前後に産経新聞の編集管理部でアルバイトをしていたので、
鹿内信隆議長の写真が額に入って飾られていたりと当時の産経ビルの雰囲気を
知っていますが、その後ドラスティックな鹿内宏明氏の解任劇が行われるとは
毛ほどにも思いませんでした。


さて、テレビ朝日開局一期生の父にとっては本書は面白くて仕方がないようです。
父の記憶によるとフジテレビが放送開始したのは59年3月。
テレビ朝日(当時は日本教育テレビ(NET)といっていました)は4月放送開始
(テレ朝の沿革史を見ると2月放送開始)と1ヶ月遅れてはいたが、
教育放送の免許のみ認められたNETのほうが一般放送の免許を受けた
フジテレビより当初は元気であったといいます。

各局スタートしてTBSは「ドラマ」、NTVは「プロ野球」というイメージを
構築しており、今と違ってフジはこれといったイメージはなかったそうです。

NETは開局3ヵ月後には槍ヶ岳からの実況中継を初めて行い夏山山頂からの大観を
実現。続けて冬には雪男学術調査隊で海外ドキュメンタリーの第一号を製作。
その後4年にわたり山の中継は続いたといいます(実況中継3回、
ドキュメンタリーフィルム製作4回)。
この中継要員には明治、早稲田、立教の山岳部OBが中心となっていたそうです。
こうしたことからNETに対しては「」のイメージができたといいます。


はじめの槍ヶ岳中継の際には、上高地に入るためには釜トンネルを通る
必要があるが、当時中継車が通る幅がなかったことから六本木の社の前で
中継車を分解、放送機材のみ大型トラックに積載。釜トンネルの手前でさらに
小型トラックに積み替えてあとは上高地に搬送。
その後はボッカ(荷揚げ要員)が機材を運び、槍の肩の小屋の脇に中継所を
設置するというチカラ技をこなしたというはなし。


開局後14年間に渡って「教育放送」免許のみという営業的なハンデを負わざるを
得なかったNETですが、TV放送黎明期の番組制作に対する関係者の
「新しいものの創造への熱意」が伝わってきます。


TV局開設当初は映画業界と大きな軋轢があったわけですが、
いまは「放送と通信の融合」という形に変えて新しいメディア(ネット)が既存のメディアと
軋轢を生じさせています。

いずれにしろ決してカネで経営権を買収すればOKということではないということ。
モノ作り、創造への情熱だけが真に価値あるものとして後世に残されていくのでしょう。


と、はなしがあちこちに飛びましたが、本書はとても面白くて
私にとっては今年一年ではイチオシの書籍となりました。


メディアの支配者 上

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2005年11月11日

雪崩遭難体験について:大塚博美

私の父(大塚博美)は戦後すぐから大学山岳部を中心に登山を
していた古参で、すでに80歳を過ぎている(大正13年生まれ)
こともあるので、生きているうちに登山のことについて聞ける
話しは聞いておいて文章に残しておこうと思っています。

以下の内容は、明治大学山岳部OB会(炉辺会)発行の会報へ
載せるための原稿を元にもう少し詳しく聞いてみたものを
書き起こしたものです。


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日本山岳会(JAC)創立百周年記念事業のフォーラム(2005年11月3日 東京体育館会議室)で「『山日記』から見た日本山岳会」と題する集会があり、メインスピーカーの松丸秀夫名誉会員(90歳)のサブとして私は遭難体験談のショートスピーチをしました。


(1) S24年6月OB1年目。前穂高A沢グリセード失敗談

学生を先行させ、私は後から行く。
粗目雪のなかグリセードしたところ、扇状の斜面で表層雪崩。何度も雪崩の溝から逃れようとしたが失敗で滑落、ダメだと思った。
この先大滝があると思ったが、あっという間に飛ばされ、一瞬気を失う。
50メートルの大滝ジャンプ、右手首にバンドで結びつけておいたピッケル(シェンク製のピッケル)紛失。
腰を強打したが学生たちと合流、肩を借りて生還した。
台風来襲もあり一週間木村小屋(上高地帝国ホテル裏)で回復治療しつつピッケル探しへ出掛け大滝の下にピッケルが刺さっているのを双眼鏡で発見する。
ピッケルは明大山岳部創立者、北畠義郎さんの寄贈品ゆえに必死の探索。
足の踏み変えも出来ない場所。
ジャンプターンを決めて一気に奥又白谷の谷底まですべり下りた。
治療用のクスリは特になく、小屋の番人の木村さんに「打撲にはキハダ」ということで調合してもらった。


(2) S32年3月8日、明大山岳部(MAC)春山合宿。

荒井の現地緊急報告から「佐藤が白馬鑓北稜で滑落骨折、尾根基部でビバーク」と判明(第1次遭難)。
直ちに救助に赴くが12日、救援隊(リーダー大塚)は2回にわたり雪崩に遭遇。
初回は尾根基部での捜索時。
「ヤバイ」と思い捜索を打ち切ったと同時に雪崩が発生、スキーのストックで踏ん張る程度、腰が埋まりながらゆるく流されていった程度。
ほかの7人も流され、埋没したが完全埋没ではなく自己脱出可能であった。
ただひとり五十嵐のみ10分ほど発掘に時間がかかった。
人工呼吸で息を吹き返した。

8人の体制を整え、退避行動を始めた途端、湯沢からの風圧を感じた。
あっという間の出来事で両手で顔を覆うのが精一杯。
大波のような雪圧。深い谷へ引きずりおろされていった。
しばらくして、向かい山の傾斜に入ったところでややスピードが落ち、立ち上がったら私だけ雪の上に立つことが出来た。
デブリはまだ動いている状態。
周りを見ると明治の高橋と平野を発見し発掘、その後手だけ出ている千葉大の勝田君を発見、3人で救出作業。和かんじきを履いているため救出難航し30分かかる。
あとの4人は発見できず。

結局、明治大・千葉大の8名の内4名埋没死亡(明大2、千大2)、生還4名(明大3、千大1)。
たまたま千葉大山岳部は春山合宿を小日向BCを中心に活動しており友好救援に協力してくれていた。
これが千葉大を含めた第2次遭難となり以降遺体捜索終了は5月下旬まで、延べ1300人の大捜索となる。捜索費120万円余。

実は米軍輸送機がほぼ同時刻に杓子尾根大雪渓側に激突、墜落していた。
“ズーン”という腹底に響く鈍い音を電気通信大山岳部の芳野監督らは御殿場小屋(栂池)付近で聞いている。
米軍機墜落事故が第2次杓子沢雪崩遭難の直接原因と断定するには根拠が不十分であるが、ほぼ同時の事故であることは間違いない。



来年は春山合宿二重遭難から50周年を迎える、感慨無量のものがある。

私がA沢、杓子沢、湯沢の3度にわたる雪崩に襲われながら自己脱出できたのは幸運、神のみぞ知る運命であろう。
もし何か策をと強いていえばその時の姿勢が低いホッケ姿勢(うずくまる前傾姿勢のカタチ)を本能的に取った、といえることだ。
要約すると私のケースでは「姿勢」が共通項として重要な要素となっている。
しかしこれは飽くまでも私の場合のみであることは言うまでもないことである。

「山から悲劇をなくそう」と事故処理終了後遭難実態調査を行った。
6年(1期3年を2期、S31年〜35年)の長く地味で辛い調査研究であったが、これは山を知り身を護る資料となるものと信じていた。
しかし、早々に身内から遭難事故を起こしてしまった(S34明大冬山合宿 剣立山ライチョウ荘付近での雪崩遭難。犠牲者1名)。
情けないがこれが現実である。




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2005年10月25日

登山装備品あれこれ(片桐テントについて)

日本山岳会編「山日記」第35輯(1970)45ページ以下「山のテント・50年ー片桐盛之助氏に聞くー」を読むと戦前戦後の登山道具(テント)改良の歴史がうかがえます。
防水素材として大正時代の油紙から昭和初期の薄い防水木綿、戦後の合成繊維という変遷。キスリングの改良話などもあります。


なお、2004年の南極プロジェクトで同行した朝日新聞カメラマン武田剛さんの記事に片桐盛之助に触れた箇所があります。
記者の武田さんは立教大山岳部のOB。1987年立教大学山岳部ナンダ・コート登山隊の一員として学生時代参加されています。
片桐テントの婿養子の片桐理一郎さんも立教大山岳部OBということで武田さんとは縁があるわけです。

asahi.com 南極プロジェクト


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2005年10月21日

当世登山装備品事情

父から聴いた話で面白かったので備忘録的に。

明治大学山岳部は4〜50kgの荷物を背負ってのハードな登山をするため既製品の登山装備品では対応できないといいます。
そのためリュックサック(ザック)も今風の縦長のものではなく、横に張り出たタイプのキスリングザックを特注します。
またテントも特注。既製品では一度の山行(3週間)でヘタってしまうのでやはり特別に誂える必要があるそうです。

かつてはザックやテントはキャンバス地の帆布などを使って作られていましたが、それがレイヨン+ビニロン(夏用テント)、ナイロン(冬用テント)などの化繊へと素材も移り今日に至っています。


荻窪の吉田テントさん、渋谷宮益坂の細野テントさん、神田明神下の片桐ザック・・・
ところが、二代目へと代替わりするにつれてザックやテントの作り手もいなくなって、山岳部では今後は既製品で対応せざるを得ない状況だそうです。


こういう話に接すると周りの状況によって行動スタイルが変わってしまう、変わらざるを得ないということが登山においてもあるのだな、との感を強くします。


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2005年10月13日

新刊案内 「新日本山岳誌」 日本山岳会責任編集 ナカニシヤ出版

山岳会本(社)日本山岳会は創立100周年を迎え様々な記念事業を行っていますが、出版関係では「日本山岳会100年史(仮称)」のほか本書の出版が記念出版事業となります。

父が山岳会会長当時、ナカニシヤ出版と出版契約を会を代表して締結したわけですが、それから数年を経てとても立派なカタチに残るものが出来上がってきました。

総ページ数2000頁、岩波書店の広辞苑ほどの大きさがあり、全国4000にも及ぶ山に関する情報が掲載されていて山岳百科事典という体裁(18900円)。
総論部分では明治大学の小疇尚先生ほか数名の地理学研究者による日本山岳概説も掲載されています。

本書の詳しい内容についてはナカニシヤ出版のサイトをご覧いただければと思います。

ナカニシヤ出版


新日本山岳誌

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2005年10月12日

日本山岳会創立100周年記念「所蔵山岳図書・絵画展」(丸の内 丸善)

丸善い丸善丸の内本店で丸善本店開店1周年記念、日本山岳会創立100周年記念所蔵山岳図書・絵画展が開催されています。


10月8日〜17日(月)
9:00〜21:00



丸善う

100年の歴史を持つアルパインクラブはその所蔵する絵画や図書にも貴重なものが数多くあります。今回その中から厳選して200点ほど展示されています。

会場では今回の展覧会の目録が1000円で販売されていますが、山岳関連稀覯本資料として貴重なものです。


丸善 丸の内本店


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2005年08月14日

マッターホルン、モンブラン連続登頂

237b5304.jpg合気道道場の先輩T氏が還暦を迎えた記念として、若い頃から親しんできた山行の海外登山計画を立てられました。
ヨーロッパアルプス、マッターホルン(4478m)とモンブラン(4808m)の連続登頂。

計画を設定されてからは毎週のように国内の山をガイドを雇ってのトレーニング。
この行動力、決断力は驚くばかりです。

聞くところによると、マッターホルンの登頂成功率は50パーセント。天候もありますが、シーズンではたくさんの人が登る為チャンスを逸すると成功の確率が極端に減ってしまうそうです。

スイス現地入り後予定したアルパインガイドとともに行動、2山完全登頂を成し遂げられました。


若い頃とは装備や岩壁の登攀技術が違っていてね」とは、T氏の弁。

あっけなく終わってしまった」と淡々と感慨を語るT氏には、今回の山行は単なる人生の通過点のひとつに過ぎないようです。



田畑さん
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2005年07月26日

書籍紹介 谷山宏典「登頂八〇〇〇メートル―明治大学山岳部十四座完登の軌跡」

山と渓谷社から8月1日刊行の本書は、明大山岳部による前人未到、単独の大学山岳部関係者による世界8000M級の山々の完全制覇のドキュメント。

現在登山というと、中高年の方によるものや高所登山請負人(国際公募隊、商業登山)のサポートによる個人レベルの登山がニュースとなりますが、一方では一見古風ではありますが、団体の総合力、体育会の伝統に根付いた登山も存在しているということ。
とりもなおさず「伝統」というものが良い結果を生み出す事例として、記憶に留められるべき業績です。

世界8000M級14座単独登頂としてはメスナーが有名ですが、私立大学という団体の学生やOBが14座を完全登頂したことは世界的に見ても偉業で、明大OBの私としてもたいへん誇りとするべき壮挙です。


明大山岳部といえば、冒険家の植村直己さんを思い浮かべます。
私が小学生の頃、植村さんが北極圏12000キロ犬ぞり旅行から帰国した際、父とともに出迎えに空港まで行って挨拶したり、自分より大きな犬を柵越しに見たりと(今では検疫でそれほど早くは見られないでしょう)そんな思い出があります。

本書を読むと現在の学生、若手OBの力量ー行動力、判断力、忍耐力どれをとっても往年の登山家のものに引けをとらないことがわかります。
彼らの記録がこうして刊行されて、手軽に接することができるのは望外の幸せです。


なお、著者の谷山宏典さんは将棋の駒のたとえで言うと「香車」のような人、とは父の弁。
今後ライターとしての活動も楽しみなところです。


登頂八〇〇〇メートル―明治大学山岳部十四座完登の軌跡
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