山あれこれ

2007年10月29日

富士登山―83歳の体力測定―

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富士登山―83歳の体力測定―

明治大学山岳部炉辺会 大塚博美(S23卒) 07.09.10記



“まだ83歳だよ”と元気印を標榜しているが、7年振りの富士登山。
果たして結果やいかに。

サポーターは加藤博二君(S35卒71歳)、加藤啓一君(旧姓菅原S34卒71歳)の強力な助っ人。
2人が山中2泊3日でゆっくり無理のない登山計画とマネージメントを以下のように立ててくれた。

2007年8月28日、新宿朝一番の高速バスで河口湖富士山5合目(2305m)へ。
その日は白雲荘(3200m)泊まり。
翌29日、頂上(3776m)往復白雲荘泊。
30日、河口湖5合目へ下山、高速バスで新宿。


高曇りの天候に恵まれて標高差1471mをなんとか2日掛かりで無事登頂。体力テストを体感できた。
富士山は大きく厳しくて難しい、今の私の安全圏に富士はない。
2人の気心知れたいい仲間の「介護」なくしては楽しく充実した登山はできなかったろう。
感謝を込めてお礼を申し上げると共に、私の心に残る富士山の感想のいくつかを述べてみたい。


『こんな筈ではなかった』

5合目から最初の鳥居の7合目(2700m)まではトップ菅原君、ラストは加藤君のオーダーでいいペースで行った。
“少し早いのではないか”と、加藤君は言うくらい。
ところがここから始まる岩場のルートになってすっかりペースが乱れた。
“岩場ルートがこんなに厳しかったかな〜”
いままで何遍となく登り下りしたか分からないが、私の記憶のなかの印象にはなかった。

団体登山の若い男女、子供連れの親子、皆スイスイ追い越していく。
“ガンバッテ〜”と若い娘が声をかけてくれる有様。
後ろから加藤君がしびれを切らしたのであろう介添えしてくれる、文字通りの「手とり足とり」である。スタンス、ホールド、コースの指示、そこは四つんばい、と。
鎖につかまって息を整えるのが精一杯、ここを抜けきるのに2時間余りかかる。

やっと8合目の東洋館(3000m)に近づくと更に上の方3軒先に、白雲荘(3200m)の看板が読み取れた。
午後4時。登りはじめて5時間もかかっている。
“生あくびは出るわ、頭はフラフラするしジグザグの登山道は一辺しか続かない。
3000mの高度とカロリー不足のせいか低血糖の感じもする。
ホノルルマラソンを思い出したりしても術はない、強力200Kcalゼリーを取り出して一気に飲み込むのが上策だがすでに手遅れだ。
再三、菅原君が“背負いましょう”と手を伸べたがついに8合目の救護所(3010m)あたりで菅原君に荷物を預け空身となった。
いままでにないことだが、これが83歳の現実の体力だ。

太子館(3020m)で一休み、団体が続々と追い越していく。
と、菅原君が“あっ、加藤だ!”(加藤慶信、H12卒)と声を上げる。炉辺会の若手ホープの加藤君だ。
“あっ、大塚さん達”と彼もびっくりした様子。彼の腕にはプロガイドの腕章が着いている。
見ると小学生低学年生2人に付き添っている。“この太子館で仕事しています。明日頂上でお会いしましょう!急ぎますから。”
なんとこんな所で「炉辺会の3加藤」が会するとは真に愉快だ、と大笑い。

それにしても、今回の菅原君はへんに憑いている。5合目の歩き始めから1銭、百円、そしてストックのゴムの石附・・・と拾い捲った。
そしてついには加藤(慶)を見つけている。

さて、休んでいては小屋には着かない、あと2ステップで白雲荘だ。
ジグザグのガレ道、辛抱と気力でゆっくり登る。午後6時、想定内時間の到着。
悪戦苦闘もあったが、空元気の気力の第一日だった。


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『あんがいな頂上』

朝6時発、8℃、昼飯と水を預け今日も空身。
約600mの登り、加藤君は「昼飯は頂上だな・・・」と想定時間を誰にともなくつぶやく。
私に暗示をかけているかのようだ。朝飯は生卵、納豆、みそ汁としっかり摂り気力も充実している。
本8合目(3360m)富士山ホテル、7時頃、好調だ。9合目御来光館8時頃、まあまあのペース。
あとは頂上への急坂の先に2つの鳥居が望める。
ゆっくりとリズムをとりジグザグを繰り返すとなんと鳥居が目の前だ、最後の鳥居の下で加藤、菅原両君が待ち受け、“ガンバレ84歳、あと一息だ!”とエールを送ってくれる。
私も「あとはこの10数段の石段だ」と、気合を入れストックを握り直して登りきった。チラリと1956年マナスルのスノーエプロン登攀が脳裏をかすめる。
“おれはまだ83歳だ!有難う!!”とエールを返すと祝福の大笑いが大空に拡がった。
午前9時10分頂上に立つ。登りはじめて3時間ほどだから、あんがいなものである。
余裕の2人はお鉢巡りのショートコースへ向かう。

午後2時、白雲荘へ入り泊まり。

下山の朝600時、バス登山客の付き添いのガイドや小屋の番頭のせきたてる大声が響く。
“121号の皆さん点呼をとりますので急いで外に出てください。122号の皆さんも後につづいてください!”
強風の元でバス2台の登山客の下山風景は見物であった。我々もこの後出発した。


『富士山あれこれ』

*外国人登山者

何故か年齢を聞く外人登山者。仙人にでもみえるのか。
頂上で休んでいる時、若い2人のアメリカ青年が礼儀正しく“お歳はいくつですか?宜しければ一緒に写真を撮らせてください。”と聞いてきた。
“OK。だが、私は幾つにみえますか?”と聞くが、はっきりした返事はかえってこない。
写真を撮ったあとTシャツ・短パン・スニーカーの彼らに加藤君がいろいろ話しを聞く。
北方の地方に住んでいるから寒くない、5合目から往復だと。何で富士登山をやったのかは聞き漏らした。

下山のバス停で会った3人のフランス青年達。着替えとパッキングを終えた私に日本語で歳を聞いてきた。
“失礼ですがお幾つですか?”と正しい日本語だ。
“日本語できるじゃない!私は幾つにみえますか?”と反問し3人を見回すと6、70歳ぐらいと交々返事。
“83歳だ”と言うと、びっくりしたとの声。名古屋のドイツの自動車会社で仕事をしていて休みで来た、これから頂上往復ですとのこと。
トレビアーン、コマンタレヴ、と大笑い。10時頃のこと。

*ごみがない

ごみがひとつもみあたらなかった。
世界遺産にごみで汚いと落選させられたショックがが山の清掃活動に拍車を掛けたのであろうか、山小屋も清潔感でトイレは特別浄化装置を設備して臭みは殆どなかった。

*団体登山はバスツアー

閉山寸前8月末は空いていると思っていたが若い団体に出逢って、はてどうしてなんだと思う。
これも社会現象の一つかツアー会社の商品の一つとして日本一の富士山へ、河口湖口と須走口へ5合目までバスで都心から2時間でいけるアクセスのよさ。
観光と登山をシステム化したマニュアルがあるのではないか。白雲荘も500人収容の大きさである。


*帰宅その後

30日午後よろよろと帰宅。大腿部の筋肉痛は3日で消える。
ラジオ体操の日課とウォーキングなどの調整で体調は好調に進んだかにみえたが高血糖値が続き、疲労感が消えず体に張りがない。
薬量を調整。9月10日現在、このレポート校了で少し元気を取り戻す。

ジョギングも走れるようになって復調傾向だが、果たして完全復帰は何時になることか。
それが今回の体力テストの結果だと見ている。


『結び』

しおりに印刷されて手元にとってあるウルマンの詩の一節が浮かぶ。

「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらへる限り、八十歳であろうと人は青春にして已む。」
(『青春の詩』サムエル・ウルマン 訳宇野収・作山宗久)


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明治大学山岳部炉辺会「炉辺通信」156号(H19.10.28)掲載

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2006年12月28日

新刊案内 根深誠「風雪の山ノート―ある大学山岳部員の足跡 」(七つ森書館)

12月26日刊行の本書は、チベット紀行や白神山地保護活動で
著名な根深誠さんによるものです。

明大山岳部出身の根深さんの青春時代が語られています。

層の厚いS36年、37年卒部員に鍛えられたリーダー坂本さんに
これまたみっちり鍛えられた根深さん。
ちなみに植村直己さんは39年卒。植村さんはいちばんシゴかれた
年代だったようです。

多感な学生時代の厳しい山登りがあってこそ、世界初、
単独大学山岳部出身者による8000メートル峰14座全制覇の
偉業を成し遂げることができたのでしょう。

結果がすべてを物語っています。

なお、跋文をわたくしの父が寄せています。

風雪の山ノート―ある大学山岳部員の足跡

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2006年05月08日

マナスル登山50周年を迎えて

山
1950年ネパールが国をオープンにしたことをきっかけに(社)日本山岳会はヒマラヤ未踏峰マナスル(8136m)の世界初登頂を計画。


52年に偵察隊を出し、53年第一次本隊、
54年第二次本隊(サマ部落事件で頓挫)。
1年を置いて56年、第三次本隊により登頂成功へとつながります。

マナスル登頂から半世紀。
54,56年本隊に隊員として参加した私の父も
すでに80の年齢をこえています。


ところで、マナスル登山の総事業費は1億円
そのうち政府関係機関からは575万円の補助金、
毎日新聞関係1650万円、
募金7500万円など。

戦後10年ほどの時期にこうした壮挙を成し遂げたことで、
当時かなりのインパクトを世間に与えたようですが、
総事業費のうち一般募金が多くを占めていることからしても
初登頂に対する人々の期待、夢への想いの強さが
伝わってきます。


ちなみにマナスル初登頂当時の物価は
新大卒月給6〜9000円、コーヒー1杯30円、
為替レート1ドル:360〜400円(ヤミ)となっています。
((社)日本山岳会編「中国・日本・ネパール1988年
チョモランマ/サガルマタ友好登山 報告書」(1990年)より)



(社)日本山岳会のマナスル登頂50周年記念行事としては、
フォーラムやシンポジウムを開催、
ネパールトレッキングも予定(秋期)されています。


現在、「祝マナスル登頂50周年 藤田弘基写真展 マナスルを巡る
新宿のペンタックスフォーラムで開催中(5月18日まで)。


ペンタックスフォーラム



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2005年12月09日

新刊案内 中川一徳「メディアの支配者」(上・下)講談社(2005.6)

父から読んでみろといわれて読んでみたのが上下二冊の本書。
フジサンケイグループについて書かれたもの。

私はベルリンの壁崩壊前後に産経新聞の編集管理部でアルバイトをしていたので、
鹿内信隆議長の写真が額に入って飾られていたりと当時の産経ビルの雰囲気を
知っていますが、その後ドラスティックな鹿内宏明氏の解任劇が行われるとは
毛ほどにも思いませんでした。


さて、テレビ朝日開局一期生の父にとっては本書は面白くて仕方がないようです。
父の記憶によるとフジテレビが放送開始したのは59年3月。
テレビ朝日(当時は日本教育テレビ(NET)といっていました)は4月放送開始
(テレ朝の沿革史を見ると2月放送開始)と1ヶ月遅れてはいたが、
教育放送の免許のみ認められたNETのほうが一般放送の免許を受けた
フジテレビより当初は元気であったといいます。

各局スタートしてTBSは「ドラマ」、NTVは「プロ野球」というイメージを
構築しており、今と違ってフジはこれといったイメージはなかったそうです。

NETは開局3ヵ月後には槍ヶ岳からの実況中継を初めて行い夏山山頂からの大観を
実現。続けて冬には雪男学術調査隊で海外ドキュメンタリーの第一号を製作。
その後4年にわたり山の中継は続いたといいます(実況中継3回、
ドキュメンタリーフィルム製作4回)。
この中継要員には明治、早稲田、立教の山岳部OBが中心となっていたそうです。
こうしたことからNETに対しては「」のイメージができたといいます。


はじめの槍ヶ岳中継の際には、上高地に入るためには釜トンネルを通る
必要があるが、当時中継車が通る幅がなかったことから六本木の社の前で
中継車を分解、放送機材のみ大型トラックに積載。釜トンネルの手前でさらに
小型トラックに積み替えてあとは上高地に搬送。
その後はボッカ(荷揚げ要員)が機材を運び、槍の肩の小屋の脇に中継所を
設置するというチカラ技をこなしたというはなし。


開局後14年間に渡って「教育放送」免許のみという営業的なハンデを負わざるを
得なかったNETですが、TV放送黎明期の番組制作に対する関係者の
「新しいものの創造への熱意」が伝わってきます。


TV局開設当初は映画業界と大きな軋轢があったわけですが、
いまは「放送と通信の融合」という形に変えて新しいメディア(ネット)が既存のメディアと
軋轢を生じさせています。

いずれにしろ決してカネで経営権を買収すればOKということではないということ。
モノ作り、創造への情熱だけが真に価値あるものとして後世に残されていくのでしょう。


と、はなしがあちこちに飛びましたが、本書はとても面白くて
私にとっては今年一年ではイチオシの書籍となりました。


メディアの支配者 上

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2005年11月11日

雪崩遭難体験について

私の父(大塚博美)は戦後すぐから大学山岳部を中心に登山を
していた古参で、すでに80歳を過ぎている(大正13年生まれ)
こともあるので、生きているうちに登山のことについて聞ける
話しは聞いておいて文章に残しておこうと思っています。

以下の内容は、明治大学山岳部OB会(炉辺会)発行の会報へ
載せるための原稿を元にもう少し詳しく聞いてみたものを
書き起こしたものです。


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日本山岳会(JAC)創立百周年記念事業のフォーラム(2005年11月3日 東京体育館会議室)で「『山日記』から見た日本山岳会」と題する集会があり、メインスピーカーの松丸秀夫名誉会員(90歳)のサブとして私は遭難体験談のショートスピーチをしました。


(1) S24年6月OB1年目。前穂高A沢グリセード失敗談

学生を先行させ、私は後から行く。
粗目雪のなかグリセードしたところ、扇状の斜面で表層雪崩。何度も雪崩の溝から逃れようとしたが失敗で滑落、ダメだと思った。
この先大滝があると思ったが、あっという間に飛ばされ、一瞬気を失う。
50メートルの大滝ジャンプ、右手首にバンドで結びつけておいたピッケル(シェンク製のピッケル)紛失。
腰を強打したが学生たちと合流、肩を借りて生還した。
台風来襲もあり一週間木村小屋(上高地帝国ホテル裏)で回復治療しつつピッケル探しへ出掛け大滝の下にピッケルが刺さっているのを双眼鏡で発見する。
ピッケルは明大山岳部創立者、北畠義郎さんの寄贈品ゆえに必死の探索。
足の踏み変えも出来ない場所。
ジャンプターンを決めて一気に奥又白谷の谷底まですべり下りた。
治療用のクスリは特になく、小屋の番人の木村さんに「打撲にはキハダ」ということで調合してもらった。


(2) S32年3月8日、明大山岳部(MAC)春山合宿。

荒井の現地緊急報告から「佐藤が白馬鑓北稜で滑落骨折、尾根基部でビバーク」と判明(第1次遭難)。
直ちに救助に赴くが12日、救援隊(リーダー大塚)は2回にわたり雪崩に遭遇。
初回は尾根基部での捜索時。
「ヤバイ」と思い捜索を打ち切ったと同時に雪崩が発生、スキーのストックで踏ん張る程度、腰が埋まりながらゆるく流されていった程度。
ほかの7人も流され、埋没したが完全埋没ではなく自己脱出可能であった。
ただひとり五十嵐のみ10分ほど発掘に時間がかかった。
人工呼吸で息を吹き返した。

8人の体制を整え、退避行動を始めた途端、湯沢からの風圧を感じた。
あっという間の出来事で両手で顔を覆うのが精一杯。
大波のような雪圧。深い谷へ引きずりおろされていった。
しばらくして、向かい山の傾斜に入ったところでややスピードが落ち、立ち上がったら私だけ雪の上に立つことが出来た。
デブリはまだ動いている状態。
周りを見ると明治の高橋と平野を発見し発掘、その後手だけ出ている千葉大の勝田君を発見、3人で救出作業。和かんじきを履いているため救出難航し30分かかる。
あとの4人は発見できず。

結局、明治大・千葉大の8名の内4名埋没死亡(明大2、千大2)、生還4名(明大3、千大1)。
たまたま千葉大山岳部は春山合宿を小日向BCを中心に活動しており友好救援に協力してくれていた。
これが千葉大を含めた第2次遭難となり以降遺体捜索終了は5月下旬まで、延べ1300人の大捜索となる。捜索費120万円余。

実は米軍輸送機がほぼ同時刻に杓子尾根大雪渓側に激突、墜落していた。
“ズーン”という腹底に響く鈍い音を電気通信大山岳部の芳野監督らは御殿場小屋(栂池)付近で聞いている。
米軍機墜落事故が第2次杓子沢雪崩遭難の直接原因と断定するには根拠が不十分であるが、ほぼ同時の事故であることは間違いない。



来年は春山合宿二重遭難から50周年を迎える、感慨無量のものがある。

私がA沢、杓子沢、湯沢の3度にわたる雪崩に襲われながら自己脱出できたのは幸運、神のみぞ知る運命であろう。
もし何か策をと強いていえばその時の姿勢が低いホッケ姿勢(うずくまる前傾姿勢のカタチ)を本能的に取った、といえることだ。
要約すると私のケースでは「姿勢」が共通項として重要な要素となっている。
しかしこれは飽くまでも私の場合のみであることは言うまでもないことである。

「山から悲劇をなくそう」と事故処理終了後遭難実態調査を行った。
6年(1期3年を2期、S31年〜35年)の長く地味で辛い調査研究であったが、これは山を知り身を護る資料となるものと信じていた。
しかし、早々に身内から遭難事故を起こしてしまった(S34明大冬山合宿 剣立山ライチョウ荘付近での雪崩遭難。犠牲者1名)。
情けないがこれが現実である。




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2005年10月25日

登山装備品あれこれ(片桐テントについて)

日本山岳会編「山日記」第35輯(1970)45ページ以下「山のテント・50年ー片桐盛之助氏に聞くー」を読むと戦前戦後の登山道具(テント)改良の歴史がうかがえます。
防水素材として大正時代の油紙から昭和初期の薄い防水木綿、戦後の合成繊維という変遷。キスリングの改良話などもあります。


なお、2004年の南極プロジェクトで同行した朝日新聞カメラマン武田剛さんの記事に片桐盛之助に触れた箇所があります。
記者の武田さんは立教大山岳部のOB。1987年立教大学山岳部ナンダ・コート登山隊の一員として学生時代参加されています。
片桐テントの婿養子の片桐理一郎さんも立教大山岳部OBということで武田さんとは縁があるわけです。

asahi.com 南極プロジェクト


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2005年10月21日

当世登山装備品事情

父から聴いた話で面白かったので備忘録的に。

明治大学山岳部は4〜50kgの荷物を背負ってのハードな登山をするため既製品の登山装備品では対応できないといいます。
そのためリュックサック(ザック)も今風の縦長のものではなく、横に張り出たタイプのキスリングザックを特注します。
またテントも特注。既製品では一度の山行(3週間)でヘタってしまうのでやはり特別に誂える必要があるそうです。

かつてはザックやテントはキャンバス地の帆布などを使って作られていましたが、それがレイヨン+ビニロン(夏用テント)、ナイロン(冬用テント)などの化繊へと素材も移り今日に至っています。


荻窪の吉田テントさん、渋谷宮益坂の細野テントさん、神田明神下の片桐ザック・・・
ところが、二代目へと代替わりするにつれてザックやテントの作り手もいなくなって、山岳部では今後は既製品で対応せざるを得ない状況だそうです。


こういう話に接すると周りの状況によって行動スタイルが変わってしまう、変わらざるを得ないということが登山においてもあるのだな、との感を強くします。


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2005年10月13日

新刊案内 「新日本山岳誌」 日本山岳会責任編集 ナカニシヤ出版

山岳会本(社)日本山岳会は創立100周年を迎え様々な記念事業を行っていますが、出版関係では「日本山岳会100年史(仮称)」のほか本書の出版が記念出版事業となります。

父が山岳会会長当時、ナカニシヤ出版と出版契約を会を代表して締結したわけですが、それから数年を経てとても立派なカタチに残るものが出来上がってきました。

総ページ数2000頁、岩波書店の広辞苑ほどの大きさがあり、全国4000にも及ぶ山に関する情報が掲載されていて山岳百科事典という体裁(18900円)。
総論部分では明治大学の小疇尚先生ほか数名の地理学研究者による日本山岳概説も掲載されています。

本書の詳しい内容についてはナカニシヤ出版のサイトをご覧いただければと思います。

ナカニシヤ出版


新日本山岳誌

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2005年10月12日

日本山岳会創立100周年記念「所蔵山岳図書・絵画展」(丸の内 丸善)

丸善い丸善丸の内本店で丸善本店開店1周年記念、日本山岳会創立100周年記念所蔵山岳図書・絵画展が開催されています。


10月8日〜17日(月)
9:00〜21:00



丸善う

100年の歴史を持つアルパインクラブはその所蔵する絵画や図書にも貴重なものが数多くあります。今回その中から厳選して200点ほど展示されています。

会場では今回の展覧会の目録が1000円で販売されていますが、山岳関連稀覯本資料として貴重なものです。


丸善 丸の内本店


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2005年08月14日

マッターホルン、モンブラン連続登頂

237b5304.jpg合気道道場の先輩T氏が還暦を迎えた記念として、若い頃から親しんできた山行の海外登山計画を立てられました。
ヨーロッパアルプス、マッターホルン(4478m)とモンブラン(4808m)の連続登頂。

計画を設定されてからは毎週のように国内の山をガイドを雇ってのトレーニング。
この行動力、決断力は驚くばかりです。

聞くところによると、マッターホルンの登頂成功率は50パーセント。天候もありますが、シーズンではたくさんの人が登る為チャンスを逸すると成功の確率が極端に減ってしまうそうです。

スイス現地入り後予定したアルパインガイドとともに行動、2山完全登頂を成し遂げられました。


若い頃とは装備や岩壁の登攀技術が違っていてね」とは、T氏の弁。

あっけなく終わってしまった」と淡々と感慨を語るT氏には、今回の山行は単なる人生の通過点のひとつに過ぎないようです。



田畑さん
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2005年07月26日

書籍紹介 谷山宏典「登頂八〇〇〇メートル―明治大学山岳部十四座完登の軌跡」

山と渓谷社から8月1日刊行の本書は、明大山岳部による前人未到、単独の大学山岳部関係者による世界8000M級の山々の完全制覇のドキュメント。

現在登山というと、中高年の方によるものや高所登山請負人(国際公募隊、商業登山)のサポートによる個人レベルの登山がニュースとなりますが、一方では一見古風ではありますが、団体の総合力、体育会の伝統に根付いた登山も存在しているということ。
とりもなおさず「伝統」というものが良い結果を生み出す事例として、記憶に留められるべき業績です。

世界8000M級14座単独登頂としてはメスナーが有名ですが、私立大学という団体の学生やOBが14座を完全登頂したことは世界的に見ても偉業で、明大OBの私としてもたいへん誇りとするべき壮挙です。


明大山岳部といえば、冒険家の植村直己さんを思い浮かべます。
私が小学生の頃、植村さんが北極圏12000キロ犬ぞり旅行から帰国した際、父とともに出迎えに空港まで行って挨拶したり、自分より大きな犬を柵越しに見たりと(今では検疫でそれほど早くは見られないでしょう)そんな思い出があります。

本書を読むと現在の学生、若手OBの力量ー行動力、判断力、忍耐力どれをとっても往年の登山家のものに引けをとらないことがわかります。
彼らの記録がこうして刊行されて、手軽に接することができるのは望外の幸せです。


なお、著者の谷山宏典さんは将棋の駒のたとえで言うと「香車」のような人、とは父の弁。
今後ライターとしての活動も楽しみなところです。


登頂八〇〇〇メートル―明治大学山岳部十四座完登の軌跡
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