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2010年02月11日

追悼 「世界一の天幕作り」の吉田喜義さんを偲んで(大塚博美)

平成21年12月25日 大塚博美(昭23年卒)記

「現在の名工」として卓越技能賞受賞者の吉田喜義さん(吉田テント(株)元社長)が、平成21年11月12日老衰のため死去された。享年99歳。白寿の天寿を全うした職人魂一筋を貫いた人生であった。
葬儀は14日、杉並の今川宝珠殿で行われた。祭壇には(社)日本山岳会を始めとして、慶応・早稲田・明治などの各大学の体育会山岳部の花束が花壇に添えられていた。故人の幅広い深い絆が窺えた。
私は葬儀に参列して吉田さんの遺影を眺め、半世紀前のマナスル登山隊の追憶にしばし浸った。

当時、私は登山隊員(29歳)として装備を担当し、吉田さん(44歳)とは真剣勝負の仕事を通じて、吉田さんの職人魂に触れ深い交誼を得た。
戦後の吉田テントの発展のきっかけは、マナスル登山隊(1952~56年)の装具類の信頼によるものであろうことは疑いのないことであろう。
吉田さんのテントが日本の主な海外登山隊に伴ってネパール、カラコルム・ヒマラヤ、アラスカ、アンデスなど、世界各地で活用された。
MAC・炉辺会とも深い関係だった。60年代のマッキンリー、ゴジュンバカン、ニュジーランド、70年代でチューレンヒマール、そして植村直巳の単独犬橇北極圏1万2千キロ、北極点〜グリーンランド縦走などの特製の三重のテント。80年代には植村隊のアコンカグア、冬のエベレスト、そして81年明大百周年のエベレスト西稜などである。
登山の潮流が重厚な極地法から軽装のアルパインスタイルへと時代の変遷に従って吉田テントは85年代から文部省南極観測隊の装具が主となり、登山界との関係は薄れて行った。
またMACが「特大のキスリング」を吉田テントに特注し登山合宿で使用し、明治の「キスリング」として定評があったが、これも布地の帆布の生産の打ち切りで1990年で終わる。

ここに卓越技能賞の受賞にあたって贈られた記念の銅版から、故谷口現吉さん((慶応義塾大学山岳部OB登高会員、マナスル第2次隊員))が祝いの辞を贈ったがその跋文を紹介しよう。
「 記念として  吉田喜義さん、あなたの作った天幕は、その張られた場所の高さでも、地域の拡がりでも、また強風や低温に耐えた点でも、まさに先人未踏の域に達しました。だからあなたこそ世界一の天幕作りだと私は思っています。
しかし、ほんとうにあなたを称えたいのは、その些かも忽せにしない天幕作りの魂です。
多くの仲間達が、あなたが作ってくれたが故に、その天幕にどんな時でも、どんな所ででも、安心して生命すら託することが出来ました。
今日たまたま、五十年の鏤骨の努力が認められて、所管の大臣から表彰されたと聞きました。ほんとうにおめでとうございます。・・・」

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{写真}は第3次マナスル登山隊C5、7200mのカマボコ型テント。北峰を眼下に鯨の背の台地に設営された4基の力強く美しい威容、日本が世界に誇るその居住性、正に芸術作品である。ここに6泊した私の、当時31歳の眩しい青春のノスタルジーである。
1956年5月7日マナスル登頂のクライマックスのスノーエプロンの開拓の幕がこのC5から始まり、好天に恵まれて9日、今西・ガルツェンは初登頂に成功、続いて11日、加藤・日下田も第2次登頂に成功した。ヒマラヤ8000mの登山史の1ページに栄光の金字塔を残した。
築き上げた金字塔の数え切れない多くの礎石の一つにこの天幕があることは間違いのないことだと確信している。

【写真は「マナスル写真集」撮影依田孝喜、毎日新聞社。昭和31年11月発刊より】


明治大学体育会山岳部/OB会 炉辺通信164号所収(平成22年1月31日)

written by ootsukahoumu at 11:44│TrackBack(0)山あれこれ 

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