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2009年12月29日

「野帳」終刊によせて:大塚博美(2009年10月1日記)

「野帳」終刊によせて
2009年10月1日       大塚博美
 

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(2009/8/5軽井沢にて堀田弥一さんと共に)

2009年『野帳』6月号で終刊の「お知らせ」を拝見し少なからず想いが心に浮かびました。それは言葉や形では表せませんが、貴方(発行人 早川禎治氏)の筆勢から受ける快い爽やかさがもう終わりか、という一抹の寂しさのようなものでしょうか。
山はしっかり足腰も強く、そしてその思想信条については少しもぶれず群れることなく孤高な文武両道の畏敬の士と思っています。
すでに古希に至り、とありますが、いまだ古希でありますと発想の転換をされているのではないでしょうか。余生は著作業に専念されるために、より大きな自由を必要とすることに気づきました、とありましたが、どうかご自愛のほどを。
さて、誌面を頂戴致しましてここでは堀田弥一さんのことについて触れたいと思います。

【私の一期一会 山と人−掘田弥一さん−】

今年2009年1月30日、掘田弥一さんは百歳を迎えました。それを祝って3月、母校立教大学において山岳部OB山友会と(社)日本山岳会の共催で「百壽を祝う会」が催されました。ステッキ片手にいささかも言葉のぶれもなく矍鑠たるスピーチの挨拶に拍手は止みませんでした。
戦前、日本唯一のヒマラヤ初登頂、1936年ナンダ・コート(6867m)。立教大学ヒマラヤ登山隊隊長掘田弥一(27)、山縣一雄(25)、湯浅巌(学生)、浜野正男(学生)、竹節作太(毎日)ら5名による快挙。現存は隊長のみ。
掘田さんは私の知る限りにおいて稀有の名リーダーそのものと信じております。
堀田さんが昭和2年立教大学スキー山岳部に入部した頃は、部活動はスキーと夏山を楽しむ程度のものでしたが、掘田さんが活動してから体育会に加盟が認められました。昭和4年に上級部員となって明確な部の活動方針を定められました。誰も人の登っていない山や渓谷を登り歩く、言うなればパイオニアワークを基本として独創的な登山活動の方針です。自ら厳しい訓練と規律を課してハングリー精神を養う事をテーマとして、常に新しい目標掲げ積雪期の黒部、剣、後立山に向かいました。
昭和7年に卒業するまでの4年間、ひたむきに山を愛した仲間は、その夢をいつしかヒマラヤへと昇華させました。その詳細な報告書は立教大学山岳部部報第1号(1929年(昭和4))から8号(1937年(昭和12))に総て網羅されています。
特にヒマラヤ登山の土台となった昭和3年から10年までの山岳部の積雪期の足跡に参加した20名の部員を掲げています。
私は、たまたま入手した2冊に合本されたこの部報を読み、ただただ内容の充実に目を見張り圧倒されました。そして山のリーダーの本当のあり方と資質―綿密な調査、研究と準備―実行力を支える体力、総ての根本となる感性と山の哲学。掘田弥一さんの学生時代の若武者の姿が匂い立つように髣髴とさせるものでした。

・ナンダ・コートの時代背景

戦前の昭和11年といえば2・26事件、翌12年は支那事変など社会背景の中でインドのガルワル・ヒマラヤとはいえ、日本登山界初の快挙であったが、この山域と山を選んだのは掘田隊長でした。
この頃は学生登山界は黄金時代を誇り慶応、早稲田、京都、学習院、東大、一橋、北大などは国内の主な山々の積雪期のバリエーションに盛んな登攀を展開していました。当然勢いは海外へヒマラヤと向かっていきました。例えばカンチェンジュンガ(1929年)はパウル・バウアー隊長の報告書が翻訳されてヒマラヤ登山の教典として活用されていました。当然掘田さん達も原書の翻訳を辻部長にお願いし3ヶ月掛けて研究し大いに活用したわけです。しかし他の伝統校はどこも極地法登山の訓練だけの資料に留まってしまいました。
京都大学だけが交渉員をインドに派遣しましたが、立教大学隊の後で成果なしでした。つまりどこも本気でヒマラヤをやろうというリーダーがいなかったということになります。昭和11年を逃せば海外どころの話ではなく、部活さえ自粛の気配が忍び寄って来ていました。

・ナンダ・コートへの道

なぜガルワルを選んだのか。理由は簡単で許可が一番取り易かったからです。
現実的に必要条件を列挙して、消去法で考えていって残ったのがインドのガルワル・ヒマラヤだったのです。問題は入国と登山許可の手続でした。当時は大英帝国がインドを支配しており総ては大使館の所管でした。当時の日本外務省は、ヒマラヤ登山については何の知識もなく経験もありませんでしたので説得が大変でした。毎日新聞社や辻部長も揃って応援してくれまして、やっとパスポートを発給してもらいました。それには『視察のため英領インドへ・・・』とありました。当時インド官庁は国内の行政だけでした。
立教隊以前にもインド周辺、シッキムなどに潜入した人がいましたが、みんな無許可で忍び込んだという状況ですから、現地人に変装などして大変に苦労しています。河口海慧さんもそうです。
海外登山の大前提は、目的の山の正式な登山許可を入手することです。さらにそれぞれの国の登山規則があり登山料から始め細部に亘り決められています。隊長はサインをして登山料支払う。これが海外登山のスタートラインです。ですから、東京の英国領事館から登山許可書が届いた時、ナンダコートの夢は実現となった訳です。

・小さな登山隊

当時の立教大学山岳部は優れた山仲間のグループでしたが、家庭の事情やその他のことで無念の涙を呑み結局4名(学生2、氏名は冒頭に)、後援者の毎日新聞社から報道隊員として竹節作太(第2回冬季5輪・スイス、50キロ参加)の5名の少数登山隊となりました。
経費の総額は1万2千円、(毎日、隊員、募金で等分担)。資金、隊員の決定遅れなどから、予定の船便を遅らせ7月12日になってしまいました。貧乏隊を支えたのは山岳部部長を中心に現役ら関係者と大口募金に応募、暖かい支援を頂いた方々、特に外務省がその中に含まれていることは言葉にならない驚きと、若者の大きな夢への励ましが感謝の念と責任の一端を感じざるを得ませんでした。
神戸の埠頭で見送った後援者の気持ちの中には「これが最後にならねばよいが」、「学生の登山隊では無理でないかな・・・」登山を危ぶむ声もあったそうです。

・ナンダ・コート登山の一端

1ヶ月の船旅を終え、カルカッタからインド大陸を紀行し、アルモラでシェルパ3人、ポーター70人のキャラバンを編成。14日の行程の末BCを設営したのは9月2日でした。登頂までは約1ヶ月の行動の概略はつぎの通りです。
ルート偵察を終えてC1をABCとして、C3を5760m、C46300mを9月26日に設営しましたが、石油コンロの不調のため水が唇が湿すぐらいしか摂れない。停滞後の9月26日アタックを掛けるが呼吸困難となり天候も悪化。ガスに蔽われる中で、あと150~200mを残して下山の決断をする。
10月3日、第2次アタックのためにBCを出発。高度馴化が出来たためか、前回に比べ力強く歩く。4日C4に全員(隊員5、シェルパ1)快調で入る。
5日晴れ。7時30分頂上にへ向かって出発。前回の半分の時間で登って行く。最後は掘田隊長がトップで雪庇を切り崩して、頂上に這い上がる。続いて湯浅、アンツリン、竹節、山形、浜野。全員がナンダ・コート6867mの頂に立つことができ、歓びに手を握り合った。
掘田隊長は、その感動をその著書『ヒマラヤ初登頂』筑摩書房(4章90頁)で次のように述べています。
「瞬間、視界は開け、自分より高いところは見当たらない。頂上にきた。戦い抜いた感激。そして使い切った心身の疲労を自らねぎらった。吹き狂う氷雪の山頂で。
思えば、いつしか育まれた初登頂の夢が、現実への茨の途を進み、一つの理想としておしえられたヒマラヤの山頂へと、われわれの身を、ひとつの運命のように駆り立てた。その運命が、ついにわれわれを氷雪で蔽われた地球上の一角にまで追い込んでしまったのである。そこには誇るべき発見もなければ記念として持ち返り得る一片の石さえなかった。しかしわれわれの心は満たされた。信ずるところにベストをつくして闘ったからである。」
熱い思いが胸に迫ります。

【軽井沢避暑地での談話―2009年8月―】

恒例の軽井沢避暑中の掘田さんを訪問しました。8月の始め2泊3日となりました。3月の「百壽を祝う会」以来でしたが、相変わらず矍鑠たるご様子、ご機嫌伺いしながら閑話休題、山の放談を拝聴しました。
静かな古い別荘地の一隅に建てられたB&Bハウス、山仲間が建てた気楽な宿です。林を渡る涼しい風と木漏れの陽の午後、庭先のテーブルに着きました。
掘田さんの開口一番は、“君のエプロンルートはどうやったの?”でした。今までになく唐突な問いかけであったので少しびっくりしました。以下、1952年から始まったマナスル登山について堀田さんの談話も交え時系列を追って述べてみたいと思います。

・2次隊長決定の経緯

堀田「私への、マナスル2次隊長の就任依頼が三田さん(1次隊長)から持ち込まれたのは1953年の12月30日だった。当時健康を害していたし踏査隊にも参加せず、山に向かう気持ちは消極的だったので再三固辞したが、槙さん始めヒマラヤ委員会のメンバーや毎日新聞社の担当者が徹夜で説得された。来年1月14日が新聞の期限だということで、隊員の編成替えを条件に承諾したが、1名の変更で終わった。
たとえ登山隊が失敗に終わっても、ヒマラヤ登山成功の経験者が隊長である、ということで世間対して口実が立つということではないかと思った。私が病気のことは皆知っていたし、それにも増して人の準備した登山隊の隊長になれとは失礼なことだし、ヒマラヤ委員会の見識も疑われる事だ。それを承知の上で面目もかなぐり捨てての懇請だったのであろう。
1次隊は全員ヒマラヤ初体験者であったが、プラトーの7750mまで到達できたことで、もうあと一息と思った事であろう。そしてヒマラヤ委員会の特命を受けた1次隊員らが、1953年の英国エベレストの報告書などを新たに参考にして、隊員の編成と物量の収集、登山計画に全力を尽した。そんないままでの準備の経過が背景にあったのであろう、と推測された。
隊長になってから私はいろいろ準備のことを聞いたが、所詮私の流儀とは基本で異なっていた。一言で言えば最終キャンプが「8」だと言う事。余りにも多すぎて長く、荷揚げが多く、登山のリズムと楽しさが阻害されるという事だ。
1950年のアンナプルナ(仏)、人類初の8000mの偉業の登山内容より、1953年エベレスト初登頂(英)の登山運行が参考されたようだ。これはわが国の近代登山の導入が、槙さんらの先達によって行われた訳だ。英国留学、そしてヨーロッパアルプスでの登山など先達の経歴からみれば、何事によらずヨーロッパ重視は良くも悪くも歴史の歩みであろう。
そして日本の積雪期登山と縦走の体験技術は、アルプスの氷河技術に勝るとも、決して劣るものではないと体験上断言できる。


・サマ事件―村民の入山拒否―

堀田「私が隊長となった第2次マナスル登山隊のキャラバン隊が半ばに達した頃からサマ村民の不穏な情報が伝わって来たが、これの事実が掴めぬうちサマ村に接近し折衝したが、頑として村民の入山拒否の態度は変わらず、残念ながらガネッシュ・ヒマールに転進せざるを得なかった。

・サマ事件の遠因は、それは想定外の事であったか?

堀田さんの話や各種資料にも接して私が思ったのは次の様なことです。
サマ村民の反感は、旱魃による不作、大雪崩による僧院の破壊とラマ尼3名の死亡、疫病などの天災を、これは聖山カンブンゲン(マナスルの源名)を汚した日本登山隊の所業に対する神罰である、とエスカレートして妨害、入山拒否となりました。政府の登山許可は単なる紙切れ同様無力となり、拒否は事件となりました。400人を越える大部隊の登山隊では、即効力のある解決策でない限り無力でした。
ガネシュ偵察の断念を、BCで病に伏している隊長に報告に赴きましたが、それを期に長引く病状の悪化の懸念から登山を中止しキャラバンに変更し、堀田さん自身はドクター付き添いで途中帰国しました。
隊長の無念の胸中や推し量るべくもありません。ヒマラヤ登山はハプニング―雪崩、滑落、悪天候など―の連続と教えられてきましたが、これはいったいどうしたことだろうか、全く想定外の事態だった訳です。
当時、初参加の私は隊員として、驚天動地、ヒマラヤ山麓を放浪する大部隊の悲劇を体験しました。
第2次隊報告書に「わが1954年マナスル登山隊はあまりにも空しき敗退のエキシぺディシオンであった。・・・(谷口記)」とあります。
事件の原因は帰国後検討されましたが、隊のシェルパとチベッタンの喧嘩が根底にありました。
それは1952年今西踏査隊日誌に、シェルパとカカニの村人との大喧嘩。また1953年1次三田隊報告書には帰りのBCから数時間のラルキヤ・マーケットの茶屋でピッケルを振るっての流血の惨事がありました。隊員が止めましたが、サマ僧院の裁判権を持つ大ラマ僧が駆けつけ、交渉の結果40ルピーの支払いと、傷の手当てを条件にやっと解決。この為マーケットの上の台地にキャンプせざるを得ず半日遅れた(村山記に詳細)、と2隊の報告書には報告されています。
またシェルパは同じチベット族でありながら、村民を低く見て差別的な態度が散見されていました。隊はそれらキャラバンのトラブルは総てシェルパのサーダーに任せて、ノータッチでした。しかしサマの村民にとっては、シェルパも隊も同列だったのです。
これはヒマラヤ奥地のチベット住民に対する異文化・風習などに関する未経験からくる無知による文化対策の欠落の問題でした。また隊側のシェルパに対しても優れたサーダー(シェルパ頭)を厳選する事が第一です。莫大な経費と貴重な8000m登山の体験を逃した損失は計り知れません。1950年代のヒマラヤ登山界黄金時代においては初めての事であり、ネパール政府の面子も丸潰れでした。我が国はいまだ国交を開始しておらず、総ては日本山岳会が当事者でした。

・第3次登山隊の派遣

ヒマラヤ委員会は、マナスル登山事業の続行は決定し、1956年第3次登山隊の派遣の準備に入りました。特にサマ事件対策のため1955年には調査隊に西堀・成瀬の役員、秋に第3次先遣登山隊3名(隊長小原、村山、橋本)を派遣することを決定し、ネパール政府の許可を得て活動に入りました。
堀田「第3次マナスル隊員の、先遣隊長の小原勝郎は私の後輩でナンダコートの候補者だった。またリーダー役の今西寿男君は京大山岳部で現役の頃、鹿島槍の北壁の初登攀を小原と競った仲だった。そして今西君が初登攀者となった。20年後の今西君は、1953年の秋に京都大学山岳部アンナプルナ4峰の登山隊長として7200mまで迫り、秋の烈風にテントを破られて撤退したが、その果敢な登攀は、マナスル第1次隊の登攀と比較されて話題となった。
小原は隊長の補佐役として、また今西君は登攀のリーダー役として本隊の中核となって活躍した。山の絆の縁を感じるものだ。


・マナスル登頂のクライマックス

1956年第3次マナスル登山隊でのこと。そこで掘田さんの開口一番の、「君のエプロンルートはどうやったの?」の件です。
今までになく唐突な問いかけであったので少しびっくりして、鸚鵡返しに「いやぁー計画では加藤・村木パーティーの偵察が失敗したので、私は登頂隊のサポートの任務でC5に入ったのですが、私に『明日行け』と指示が出たわけです」と返事をしました。
部外者には何のことやら分からないと思いますので、当時の2日間を再現してみたいと思います。
―1956年5月6日、第3次マナスル登山隊は切所に面していた。基本計画ではノースコル経由でプラトーに出る一次隊のルートを前提としていたが、今西偵察隊の下見の結果、状況が極めて悪く、放棄した。槙隊長は計画を修正し、C5(7200m)の確保と、未知のスノーエプロンルートに登頂の夢を託した。
加藤偵察隊のルート・ファインディングを見ていたが、スノーエプロンの右側の雪と岩の複合したこのルートは駄目だ、スピードが上がらない、と思っていたが、二人は午後2時中止し下山した。
私の出番となった。5月7日、C5(7200m)無風快晴、8:00時酸素3lにセットし、私はペンバ・ズンダとアンザイレンし、スノーエプロンの平均斜度45度の氷雪に登攀を開始した。快調なペースでぐんぐん登り7800mのプラトーの肩に12:00時頃着いた。途中酸素の交換で止まったが高揚し疲れは感じない。C6(7800m)のキャンプ・サイトを選定した。仕事は終わったが酸素の余裕充分なのでマナスルの頂上ルートを偵察した。緩やかな斜面がうねって頂上の岩場に収斂されている、最後は岩登りがあるな、と思った。7900m、後1時30分。これで充分だ、下るぞとペンバに合図すると彼は、頂上を指さして、“トップ、トップ”と登頂しようという気持ちを表した。私はそれにはかまわず、頂上を背にし無事C5に4時ごろ下山した。―

登山隊の報告書には槙隊長の手記として「彼らは快適な歩度を持って、スノーエプロンを登りきり、プラトーの台地へ姿を消した。C2から私たちは、遂にプラトーへの登路は開かれたと大きな希望を持って、彼らの行動を見ていたのであった。この日、ふたりは7900mに達したのみならず、プラトー上の頂上への登路も十分偵察し、またC6の設営地点をも選定してC5へ下ってきた。この大塚の偵察の成功は登頂への確信を高揚させたのであった。」と。
スノーエプロンのルート開拓はこんな様子でした。
これにより好天を逃さず今西・ガルツェンの登頂隊は村木隊のサポートを得て、C6を経て5月9日午前11:00時無事、マナスル(8156m)の初登頂に成功しました。続いて11日、2次登頂隊の加藤・日下田隊も大塚隊のサポートで登頂に成功、無事下山。2隊の完全登頂により大成果を収めた日本登山隊は、ヒマラヤ8,000m14座の一角に足跡を印し、世界の登山史にその名を金字塔に残し栄誉に輝いたわけです。
こぼれ話ですが、BCを設営したところへサマ村民、特にヘッド・ラマ僧らは納得せずBCに押しかけてきました。
郡長(ネパール政府の行政官)立会いの下で数日掛けた交渉で、槙隊長はサマの僧院の再建費用としてお賽銭を収める事で合意を得ました。紙幣を数えるのに延々数時間を掛かりましたが、金で事で済めば上々の事です。BCでのその場面は、映画「マナスルに立つ」に撮られ上映されています。

【結び】

マナスル登山の成功が戦後の社会に及ぼした影響は想像を遥かに超えていました。暗い世相の中で明るい話題として、勇気と力、夢と希望を与えた事はいうまでもなく、経済産業技術への信頼、そして1952年、独立国に回復後わずか4年にして、早くも欧米諸国にわが国の自立の力を示した事は、ヒマラヤ8000m14座一角に記された金字塔の業績がその証の一つでもありましょう。
やがて登山ブームのきっかけともなった53年前のその登山隊に2度も参加できた幸運と体験は、私の人生にとって大きな財産となっています。掘田先輩の驥尾に付すことができたことはその一つに違いありません。堀田さんの談話は多岐に亘り、その中でヒマラヤ登山だけを拾い上げたので、個人的なことになってしまいお読み苦しい点、多々はご容赦ください。
マナスル登山から半世紀を過ぎた現在、堀田さんから元気にお話を聞けたことに感謝の念でいっぱい、良い軽井沢の訪問であったと思っています。

以上

「野帳」238号2789頁以下(2009.12.1刊行 発行人早川禎治 山岳同人 北の野帳社)収録

written by ootsukahoumu at 14:57│TrackBack(0)山あれこれ 

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