Oestlich des Himalaya - Die Alpen Tibets
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 JAC(日本山岳会)で4年間(1999〜2003)役員を共にした中村保氏から2008年8月付けの現況レポートが届いた。今から半年前の事だ。
 タイトルには『王立地理学協会(Royal Geographical Society:RGS)からメダル受賞、ドイツ語版「チベットのアルプス」出版及びアルパインクラブ(英国)名誉会員』とあった。
 「今年もよい事が三つ重なりました。「今年も」と書いたのは昨年のアメリカ山岳会名誉会員、UIAA(国際山岳連盟)の表彰に続いて、三つの慶事が実現したからです。」と書き出しにあった。
 「凄い!やったな」文武両道・稀有の逸材との印象を持っていた私は、むべなるかな、と心から拍手を送った。彼が未踏の「チベットの東」を18年間29回に亘り踏査の模様を英国・欧米世界の登山会へ発信し続けた実績からいえば受賞は当然であった。
チベット探検家のスウェン・ヘディンは、遂にチベットの東には足を踏み入れることはなく、この地域は空白のままになっていた。彼の探検と地理的調査が評価の対象となり日本人初の『王立地理学協会Busk Medal 2008』を受賞した。
 昨年はクーラカンリの遭難事故などがあり、炉辺通信に寄稿する機会を逸したが、中村保氏の業績は既に三冊の書籍、「ヒマラヤの東」(1996 山溪)、「深い侵食の国」(2000 山溪)、「チベットのアルプス」(2005 山溪)に発表されていて高い評価を得ていた。一方、JACの海外担当理事として2001年から海外向けの英文誌「Japanese Alpine News」を発行し始め、2008年5月9巻に至るまで欧米他海外登山団体に発信し続け、JACの伝統と信頼に大きく寄与した。その功績で2003年JACの第6回秩父宮記念登山賞を受賞した。そして2008年の年次晩餐会において名誉会員に選ばれ、会長から特別功労賞を受けた。なお、2007年韓国での第2回アジア「黄金のピッケル賞」の審査委員長を務めている。
 また、JACの会報「山」2008年5月号と8月号に表題のことについての詳報が掲載されている。5月号では神永編集長のインタービュー記事、8月号には中村保氏の寄稿による「光栄の王立地理学協会メダル授賞式」と題してその模様が的確に語られているので、詳細はこれに委ねるとして、ここでは私の印象をもう少し彼のルーツである一橋大学山岳部OB会の針葉樹会のことと、贈られてきたドイツ語書籍の豪華大型版について紹介したい。

〜針葉樹会の人々〜

 中村保氏は一橋大学山岳部1958年卒(74歳)、57年滝谷グレポン初登攀の記録ある先鋭的クライマー。卒業後石川島重工(株)入社。61年一橋大学山岳会アンデス登山隊(L吉澤一郎57歳)に参加、隊員6人は全員20代、中島寛も若手(21歳)として参加している。ペルーのプカヒルカ北峰(6046m)初登頂他ボリビヤ山群で二つの初登頂を行う。1962年から石川島播磨重工(株)の海外プラント輸出業務に携わり、以降68〜98年に至る30年間に亘りパキスタンのカラチ、中国、メキシコなどの事務所長、NZ事業部長、海外プロジェクト部長、香港有限公司社長など歴任しハードな業務を幾多に体験。語学に堪能、優れたマネージメント能力を修得。香港赴任の翌年、90年から07年の18年の間、未知な中国南西辺境に魅かれ、29回も足を運び新鮮な記録と刺激を提供した。
 小谷部全助氏といえば戦前の昭和10〜13年冬季の北岳バットレス第3尾根、5月の第4尾根、3月の鹿島槍荒沢奥壁北稜、前穂高東壁北壁などを何れも初登頂、華々しい足跡が残されている。「小谷部全助」の名前は、戦前の私の脳裏にすり込まれている。
 大学山岳部が黄金時代であったこの時代の代表格は、何といっても立教大学山岳部。昭和11年堀田弥一隊長率いる立教大学隊のガルワル・ヒマラヤのナンダコート(6867m)の初登頂は海外遠征登山日本初の金字塔である。
 吉澤一郎氏(94歳逝去)は、一橋大学山岳部創立メンバーの一人として吉澤イズム−実践・研究・思索−の三位一体論を提唱し、一橋大学山岳部の伝統の基礎を創る。1961年初の海外登山、アンデス登山隊長(57歳)として20代の隊員6人を纏め大きな成果を上げ、その後のヒマラヤ登山の第一歩の基礎とする。吉澤氏がJACの副会長の時にエベレスト登山計画があり、私も担当理事として良き先輩としてご指導を得た。JACからの帰宅時に同じ方向であったので、私のワーゲンに便乗された時などに伺ったエピソードは、老クライマーの面目躍如であった。特に海外連絡委員長として、その堪能な語学を駆使して長年欧米各国への連絡担当者として貴重な存在であり、その知識と人脈はJACの宝であった。
 同じ頃、明治大学は1960年大学創立80周年記念、アラスカのマッキンリーに学術登山隊を派遣、交野武一隊長(61歳)、登山・学術隊員7人(OB3人・学生4人)いずれも20代。ヒマラヤ登山に備えての気合充分で成果を挙げた。また、東映が記録映画を製作上映して話題を提供した。このことは炉辺会会員は先刻ご承知のことであるが、針葉樹会のアンデス隊と全く隊長・隊員の年齢編成が同じなのが愉快である。
 望月達夫氏(1914〜2002 88歳)は、一橋山岳部で小谷部全助氏らと北岳バットレスなど厳しい山行を行ったクライマー。JACでは、著作本、評者、編集を担当し逸材ぶりを発揮。75年副会長就任、85年名誉会員に推挙される。私より10年先輩の望月さんに接し、マナスルからエベレスト登山に亘って数多くのご指導を得た。その博識と知性、優しい面影は忘れられない。
 中島寛氏(1998年逝去 60歳)は、1961年一橋大学山岳部アンデス登山隊参加。JACエベレスト登山隊69年偵察・70年本隊参加、南西壁の登攀メンバーの中核として活躍。準備の為の事務局長を自ら買って出て総てをこのエベレストに賭けた。彼の手記を纏めた追悼出版「一期一会の山、人、本」(1999)には彼の山への深い思い、厳しい登攀を支えたアカデミックな学識・哲学が表れていて将来の岳界を荷うリーダーとして嘱望された逸材であったことが伺える(フルマラソン自己ベスト3時間17分。彼らしい側面の一つ)。1970年のエベレスト登山の本隊では、松方三郎隊長の下で登攀隊長を努めた私にとって、今は亡き小西政継、植村直巳など数多い個性的な猛者の中にあって、彼の文字通りの文武両道の若武者振り、匂い立つオーラが懐かしい。惜しまれる急逝である。
 各大学山岳部はそれぞれのカラーで歴史と伝統を伝えているが、現役部員の減少は大学山岳部共通の悩みであり、社会情勢の変動からどこの大学山岳部も避けられない。いかにして現役を各年代に確保するかということは90年代以降きわだってきた。伝統は力なり、といわれるが、スパイラルに継続することこそが強い伝統の力を紡いでいくものだ。暗い闇の次には、必ず明るい陽りがやってくる。自然の摂理だ。あせらずにゆったりいくしかない。

〜『Ostlich des Himalaya - Die Alpen Tibets』ドイツ語版〜

 08年夏、ドイツ語版豪華本と暑中見舞いが届いた。それには「大塚博美様、暑中お見舞い申し上げます。ドイツより本が届きましたのでお送りします。立派な出来になりました。折りを見て、都合のよいときに、明治大学山岳部にご寄贈いただければ幸いです。猛暑が続きそうです、くれぐれもご自愛下さい」とあった。
 ずっしりと重い大判の、その美しい表紙の見事な写真と装丁の豪華さに圧倒された。大判(24.29cm、288頁)で、テキスト、カラー写真265枚(中村氏の物が90%)、地図31枚(地形図が圧巻)の構成。内容は、揚子江の西側・ニンチェンタングラサン東部・カングリガンポ・深い侵食の国(三河併流)の範囲。二年掛かりの編集でドイツ人のペドロさん(出版社・精神科医)あっての出版。中村氏とペドロさんとの関わりは、「Miniya Konka」出版の際に中村氏の写真を提供したことがきっかけのようだが、人格・知性ともに優れ、多彩な能力をもつ息の合った素晴らしいパートナーを中村氏が得たことは幸運だった。「老年探検家冥利に尽き」る彼は、この2月8日、ロンドンアルパインクラブ会員総会にて名誉会員に推挙されている。
(2009.2.15記/明治大学山岳部炉辺会「炉端通信」161号H21.4.3発行)