私の父(大塚博美)は戦後すぐから大学山岳部を中心に登山を
していた古参で、すでに80歳を過ぎている(大正13年生まれ)
こともあるので、生きているうちに登山のことについて聞ける
話しは聞いておいて文章に残しておこうと思っています。

以下の内容は、明治大学山岳部OB会(炉辺会)発行の会報へ
載せるための原稿を元にもう少し詳しく聞いてみたものを
書き起こしたものです。


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日本山岳会(JAC)創立百周年記念事業のフォーラム(2005年11月3日 東京体育館会議室)で「『山日記』から見た日本山岳会」と題する集会があり、メインスピーカーの松丸秀夫名誉会員(90歳)のサブとして私は遭難体験談のショートスピーチをしました。


(1) S24年6月OB1年目。前穂高A沢グリセード失敗談

学生を先行させ、私は後から行く。
粗目雪のなかグリセードしたところ、扇状の斜面で表層雪崩。何度も雪崩の溝から逃れようとしたが失敗で滑落、ダメだと思った。
この先大滝があると思ったが、あっという間に飛ばされ、一瞬気を失う。
50メートルの大滝ジャンプ、右手首にバンドで結びつけておいたピッケル(シェンク製のピッケル)紛失。
腰を強打したが学生たちと合流、肩を借りて生還した。
台風来襲もあり一週間木村小屋(上高地帝国ホテル裏)で回復治療しつつピッケル探しへ出掛け大滝の下にピッケルが刺さっているのを双眼鏡で発見する。
ピッケルは明大山岳部創立者、北畠義郎さんの寄贈品ゆえに必死の探索。
足の踏み変えも出来ない場所。
ジャンプターンを決めて一気に奥又白谷の谷底まですべり下りた。
治療用のクスリは特になく、小屋の番人の木村さんに「打撲にはキハダ」ということで調合してもらった。


(2) S32年3月8日、明大山岳部(MAC)春山合宿。

荒井の現地緊急報告から「佐藤が白馬鑓北稜で滑落骨折、尾根基部でビバーク」と判明(第1次遭難)。
直ちに救助に赴くが12日、救援隊(リーダー大塚)は2回にわたり雪崩に遭遇。
初回は尾根基部での捜索時。
「ヤバイ」と思い捜索を打ち切ったと同時に雪崩が発生、スキーのストックで踏ん張る程度、腰が埋まりながらゆるく流されていった程度。
ほかの7人も流され、埋没したが完全埋没ではなく自己脱出可能であった。
ただひとり五十嵐のみ10分ほど発掘に時間がかかった。
人工呼吸で息を吹き返した。

8人の体制を整え、退避行動を始めた途端、湯沢からの風圧を感じた。
あっという間の出来事で両手で顔を覆うのが精一杯。
大波のような雪圧。深い谷へ引きずりおろされていった。
しばらくして、向かい山の傾斜に入ったところでややスピードが落ち、立ち上がったら私だけ雪の上に立つことが出来た。
デブリはまだ動いている状態。
周りを見ると明治の高橋と平野を発見し発掘、その後手だけ出ている千葉大の勝田君を発見、3人で救出作業。和かんじきを履いているため救出難航し30分かかる。
あとの4人は発見できず。

結局、明治大・千葉大の8名の内4名埋没死亡(明大2、千大2)、生還4名(明大3、千大1)。
たまたま千葉大山岳部は春山合宿を小日向BCを中心に活動しており友好救援に協力してくれていた。
これが千葉大を含めた第2次遭難となり以降遺体捜索終了は5月下旬まで、延べ1300人の大捜索となる。捜索費120万円余。

実は米軍輸送機がほぼ同時刻に杓子尾根大雪渓側に激突、墜落していた。
“ズーン”という腹底に響く鈍い音を電気通信大山岳部の芳野監督らは御殿場小屋(栂池)付近で聞いている。
米軍機墜落事故が第2次杓子沢雪崩遭難の直接原因と断定するには根拠が不十分であるが、ほぼ同時の事故であることは間違いない。



来年は春山合宿二重遭難から50周年を迎える、感慨無量のものがある。

私がA沢、杓子沢、湯沢の3度にわたる雪崩に襲われながら自己脱出できたのは幸運、神のみぞ知る運命であろう。
もし何か策をと強いていえばその時の姿勢が低いホッケ姿勢(うずくまる前傾姿勢のカタチ)を本能的に取った、といえることだ。
要約すると私のケースでは「姿勢」が共通項として重要な要素となっている。
しかしこれは飽くまでも私の場合のみであることは言うまでもないことである。

「山から悲劇をなくそう」と事故処理終了後遭難実態調査を行った。
6年(1期3年を2期、S31年〜35年)の長く地味で辛い調査研究であったが、これは山を知り身を護る資料となるものと信じていた。
しかし、早々に身内から遭難事故を起こしてしまった(S34明大冬山合宿 剣立山ライチョウ荘付近での雪崩遭難。犠牲者1名)。
情けないがこれが現実である。